寝苦しさに、近くの塚山公園まで散歩に出た。
時刻は12時を少し過ぎた頃。
森の中に入って行くと、少しはひんやりとしてくる。
もう、虫の音は夜通し絶えることがない。
遠くに、蝉の声も聞こえる。
秋の蝉、ツクツクホーシである。
ふと、目の前の木にクサカゲロウのような生き物がじっとしているのに気づく。
目より少し高い位置で、緑の透き通った羽をたよりなげに伸ばしながら、そこを動かないでいる。
クサカゲロウではない。
蝉の羽化だ、それも大きさからみてツクツクホーシ。
まるでカゲロウのようにたよりなげにそこにいるのだ。
どんな敵がそばに来ようと、羽化中の彼のできることは、ただじっとしていることだけだ。
土の中で、何年も過ごし、本能のままに木をのぼり、そして羽化する。
誰に教えられることもなく、初めての体験におびえることもなく、もちろん胸をときめかせることもなく。
蝉はオトナになり、そして、短いオトナの時を木にしがみつきながら過ごす。
鳴くのではなく、自分の身体を精一杯震わせながら、生きるのだ。
人間が同じことをやったら、一体何分もつだろうかという全身運動を死ぬまで続ける。
そりゃ、長くは生きられないはずだ。
あんなこと毎日やっていたら、死にに行くようなものだから。
そうか、蝉が鳴くことは、同時に死を賭けているということなのか。
考えたら、鮭だってそうだ。
彼らにとって、川を遡るのは、死にに行くのと同じことなのだ。
子孫は残るかもしれないが、自分は死ぬんだ。
まだメスはいい。
子孫を残す行為を実感できるのだから。
オスはちょっと悲しい。
相手もみつけられないまま、結局何もできないままで、オレは何のために川をのぼってきたんだという後悔とともに死んで行くのかもしれない。
そう思うと、身につまされる。
人間だって、私だって、同じじゃないか。
じっとしている、ツクツクホーシに、小さな幸せを祈って私はその場を離れた。
そう言えば、ツクツクホーシの羽化を見たのはこれが初めてだった。
去年もこの欄で空蝉と題し、アブラゼミの羽化の話をしたはず、今年は木にすがりつく蝉の数は少なかったが、道に落ちてもがいている蝉は相当見た気がする、やはり生きるには辛い今年の夏だったのかもしれない、安部邦雄