昔は、なるほどなあと思った諺の中に、しかし人間だったらそれは無理じゃないかなと思うのがいくつかある。
木を見て森を見ず、もそう。
細かいところにばかり注意が行き、全体像を見失いがちという意味だが、そりゃ人間ならそうなるよと最近は思ってしまう。
バブルの時を思い出してもらいたい。
高名な経済アナリスト達が、まだまだ不動産の値段は上がる、株価は上がる、等と言っていた。
私の記憶では、それに真っ向から反対していた人などいなかったはず。
弱々しく、いつまでもこうだと思わない方がいいとぶつぶつ言っていた連中はいた。
しかし、そんなの単なる脊髄反射で言っていただけだ。
信念で言っていたわけではない。
だから、言葉にはエネルギーがまるでなかった。
バブルを煽る連中の言葉の方がはるかにエネルギーを放っていた。
そうでなければ、あんなバブル狂想曲になるはずがない。
オランダで起きたチューリップ・バブルの話が示唆的だ。
17世紀の話だが、何故かチューリップの球根が投資の対象になり、球根1個で家まで買えるような値段がついた。
球根一個持っていれば、もう金持になれるのだ。
そんなバカなと普通思うだろう。
しかし、そうなる要素は私達のまわりにもふんだんにある。
昔から持っていた農地、高速道路ができると言うことで買い上げの対象に。
それまでは二足三文の土地が、一夜にして何億円に変わるのだ。
それを見ていた少し金を持っていた人が、これはおいしいと思って、高速道路ができそうな土地を買う。
それを聞き伝えた人が、「え?ここに高速道路が?」と思って、最初に土地を買った人から土地を高値で買う。
で、またそれを聞き伝えた人とか企業とかが、「高速道路?よろしいな」と言って、またそれより高値で土地を買う。
で、それを聞き知った銀行という金貸しが「高速道路できるなら金貸しまっせー」といって、購買心理を煽る煽る。
バブル一丁上がり?である。
こんな構造、この社会にはずっと内蔵されている。
二度とあんなバブルを起こさないなんて偉そうに言っている連中も、この内蔵されたシステムのトリガーが弾かれれば、又同じようにバブルを煽る側に戻るに決まっているのだ。
チューリップの球根ばかり見て、その本当の価値を認識出来なくなるからバブルに踊らされてしまうのだ。
木を見て森を見ず、それを反省しないといけない。
これは、あんなバブルを作ってしまったことを反省しないといけないというのと同じだ。
人間には、木を見ることと、森を見ることは同じではないのだ。
木を見て、森を見ないのは人間だからしかたがないのではないか。
井戸の中の蛙、大海を知らず、なんてのも同じだ。
どうやって大海を知るのだ。
見えないものは、存在しないのと同じではないか。
見えないくせに見えているなんて言うやつの方が、ずっとバカではないか。
見えていると言う奴は、きっと自分の脳の中でそんな勝手なイメージを想像しているに違いない。
私には霊が見える、オバケが見えるというのと同じ。
霊を見るのはいいが、その霊の住む世界が認識できるのか、あんたに。
断片なら、脳がいくらでもイメージを作ってくれるだろう。
その断片で、存在を証明できるならやってみればいいのだ。
人間、謙虚でないといけないなあと最近思う、おれは知っているとか、おれは頭がいいとか、おれは能力があるとか、勝手に思うのはいいが、それを嬉しそうに語っている姿は醜悪であるとさえいえる、総裁選を語る政治家どもの言葉の何という軽さよ、安部邦雄