家貧しうして孝子出ず、好きな諺のひとつである。
家貧しくして孝子顕わる、とも言うようだ。
貧乏な家ほど、その貧乏を克服できるような親孝行の子が出て来るものだという意味。
つまりハングリーな環境でこそ、能力のあるものが出てくるといえるのかもしれない。
満ち足りた環境にいれば、それを革新しようとか、より便利なものを作ろうなんて思わないものだ。
劣等感とか、不満足感とか、飢える気持ちとか、そういうものが明日の進歩を生むのだろう。
で、思うのだが、クリエイティブなものと言うのは、何ものにも束縛されないかわりに、何らメリットを与えられない、ほしけりゃ自分の力でとってみろ、という環境でこそ花開くものではないかと。
昨日、貸本屋のことを書いたが、当時貸本業界というのはほとんど貸本専門に書く漫画家で持っていた。
わずかな原稿料で、200ページ近いマンガを書いては、せっせと出版社へ持込んでいた。
白土三平、水木しげる、つげ義春、滝田ゆう...
彼等は、みなハングリーであり、それゆえ、その環境の中で花咲いて行った。
当時は著作権なんてのは話題にもされなかった。
人の作品を勝手にマンガにしたり、他の作家が人気を博したような題材は次々に真似をしても、誰も何も言わなかった。
いわゆるアナーキーな状況だ。
漫画家はとにかく書き続けるしか、飯を食うことができなかったのだ。
テーマをじっくりあたためたりする余裕など誰にもなかったといえる。
不思議なことだが、こういう書き続けなければならない環境にいる時の方が、よい作品を産み出すことができるのだ。
小人閑居して不善をなすと言うが、人はある意味忙しい時でないと、クリエイティブなものを考えつかないような気がする。
その点、今の時代はどうだろう。
著作権、著作権、と、自分の作ったものをやたら守ろうとする。
ルールを作り、自由に他人が使うことを妨害する。
まるで作品は箱入り娘。
お宝を産み出すのだから、ある程度囲って、誰にも触らせないようにしたい気持ちはわかるが、クリエイティブとは本当はそんなものではないのでは、と思うのだ。
みんなが自由に使い、自由に批評しあってこそ、進歩って生まれるのではないか。
当たり前のように、著作権を主張していたのでは、この先行き詰まるだけではないかと思えてならない。
著作権は守る、でも、自由にみんなに使ってもらう環境を作るのは、クリエイターの義務ではなかろうか。
などと書いてはみたものの、少し論旨が乱暴すぎるかもしれない。
今はまだゆっくりこの考えを吟味する時間がない。
皆さんの意見を聞かせてもらいながら、この問題は別の機会にまとめて考えてみたいと思う。
今の若者から時代を変えるような覇気を感じないのは、彼等が少しもハングリーではないからかもしれない、それでいて欲求不満状態にいるのだから質(たち)が悪いというか何と言うか、安部邦雄