12月も6日を過ぎた。
この時期になって、必ず思い出すのが赤穂浪士。
主君浅野匠守の無念をはらすために、吉良上野介にあだ討ちをしかけた赤穂浪士の47人。
日本人なら誰でも知っている忠義話である。
冷静に考えたら、どっちもどっち、ついでに幕府も何て官僚的なんだろうと思う話だが、赤穂浪士をあからさまに悪く言う人はほとんどいないはずだ。
自己犠牲の精神、これに極まれり、忠君愛国の象徴的存在として今も評価は高いといえる。
しかし、これも冷静に考えてみよう。
赤穂浪士なんて、早い話、今でいうテロリストそのものではないか。
夜蔭に乗じて他人の住居に討ち入り、気に入らない仇を集団で暗殺するなど、卑怯以外の何ものでもない、かな?
吉良側に立てば、確かに赤穂の浪人ども(ゴロツキども)などテロリスト以外の何ものでもない。
何て卑劣、何て横暴。
赤穂側に立てば、吉良暗殺はやむにやまれぬ忠義の行為。
大義は我にあり、卑劣とか横暴とかいわれる筋合いはなかろう。
つまり、テロリストと言っても、一方的に批判して良いものかどうかというのは、この大義があるかないかということと相関するのではないか。
で、今や騒然としているイラクのテロリストたち。
小泉さんは卑劣な行為と糾弾していたが、はたして簡単にそう言い切れるものなのだろうか。
9.11の自爆テロ。
テロリストたちは、どんな大義で一度に何千人もの罪なき人々を死に追いやることができるのだろうか。
たとえアメリカに落ち度があったとしても、WTCにたまたまいた人たちを犠牲にしていよいわけがなかろう。
とはいえ、テロリストの気持ちなど、今の私には、そして今のほとんどの日本人にもわかろうはずはない。
特攻隊とか爆弾三勇士の心情をどこかで共有していたとしても、普通の人々を死に追いやる行為を平常心でやる気持ちは全く想像できない。
にもかかわらず、赤穂浪士の心情はわかる。
何だろうな、このダブルスタンダートは。(トリプルスタンダードかもしれないが)
テロリストは無条件に悪なのか。
そんなところから、日本人は議論をじっくりしたほうがいいのではないかと、今年は去年の3倍じゃとノー天気に騒ぐ宝くじのコマーシャルを見ながら思ったりしたのである。
市川昆監督の「四十七人の刺客」という映画があったが、あれなんか赤穂浪士は刺客、即ちテロリスト扱いだった、彼等は英雄でもなければ聖人君子でもない、ただの暗殺者たちだ、それでも人は彼等を悪く言わない、どうしてなのだろうか、安部邦雄