誰に知られることもなく、山の岩肌に咲く花一輪。
この世に二つとないほどの美しさを持とうとも、その花は誰知ることなく萎み枯れて行く。
それでも花は精一杯自分を表現し、そして散って行くのだ。
それが、当たり前の花の生き方なのだと、言ってしまえばそれまでのことなのだ。
評価されるために生まれてきたのではない。
咲く為に生まれてきたのだ。
そして、立派に咲いた。
それだけのことだ。
誰にもわかってもらえないと嘆いて生きる人もいる。
どれだけ努力をしても、どれだけ汗水を流して働いても、朝来た道を戻り、又明日も、その道を歩くだけの人生。
何も変わらない、これが私がめざした道だったのか。
自分を変えたかったのか、それとも誰かに変えてほしかったのか。
人の生き方なんて、相対性の中にしか存在しない。
花が咲くように、人は何を咲かせようとするのだろう。
人が気にしているのは、その咲き方だけだ。
大事なのは、何を咲かせるかということのはずなのに。
自分の中に咲かせるものが何かあるか?
咲かせるものがあれば、それが誰も気づかないものであっても、人生何か意義があったと思えるのではなかろうか。
相対性の中に、人生の意義を見い出すのは難しかろう。
そこにあるのは、喜怒哀楽の感性の世界だ。
流す涙の恥ずかしさよ。
人生、意気に感ずることもなく、一足歩み、また歩み、日陰なすせせらぎのほとりにて、われ、人知れず微笑まん。
表題は樺美智子さん(60年安保闘争の犠牲者)の遺稿集のタイトル、誰かに認められたいために努力するのではなく、生まれてきたことに報いる為に人は努力するのだと私は思っている、でも、今日何故こんな話をしたのかな?安部邦雄