早いものである。
あの惨劇の時から、もう9年が過ぎた。
私もまだまだ若く、まだまだ夢も一杯あった。
その中の一つが映画のプロデュースだったわけで、その後も映画関連として「ねじ式」(つげ義春原作・石井輝男監督)とか「昭和歌謡大全集」につながるわけだ。
しかし、総じて映画の仕事はあまりにも発展性がない。
いつもいつもが一回きりの勝負。
話題の映画に関与できて羨ましがられることの多い私だが、金銭的にはほとんど潤ってはいない。
これは映画に限らず、舞台も同じ。
出費ばかりがかさみ、現金なんかいつ入ってくるのかわからないとんでもないビジネス。
それでも、夢を追ってつい手掛けてしまう、因果な性分と言うしかない。
さて、最初に関わった映画「ボクサー・ジョー」。
その前の年の薬師寺保栄とのチャンピオン決定戦に辰吉が勝っていれば、もっと上映も違った形になっていたはずが、思わぬ敗戦。
まるで、曙がボブ・サップに勝ってしまったような結果になってしまった。
やはり、タイトルを失ったチャンプの映画では盛り上がりも中途半端にならざるを得ない。
大阪城ホールでの上映会は、二日間とも満員にはなったが、その後は全くだめだった。
そして、上映会の終わったその夜(性格には明け方)に大震災が起きたのだ。
最初からこけたのである。
何という運命であったことか。
「ボクサー・ジョー」に関しては、今も私の中では解決できていない腹立たしきことどもが一杯ある。
金銭的に許せない奴も一杯いる。
60才過ぎたら、そういう連中とのしがらみがなくなったら、絶対小説にして暴露してやるつもりだ。
それまで生き抜かないといけない。
本当に許せん、絶対に許せん、だが、今はそういう連中と喧嘩するわけにはいかない。
微笑みを絶やさず、恨み言は語らず、我慢我慢の毎日小日。
震災に関しても、そんな恨みを持つ人はきっと一杯いるのだろうな。
1/17になるたびに、古傷が痛み、心が千々に乱れる人も多いだろう。
あの1分間ほどの縦への激しい揺れ。
その感覚は、今も記憶の中で地響きを立てて蘇る。
そして、その響きとともに、私の苦渋の体験が重なってくるのである。
あれから9年。
私の身分はいまだに、安定してはない。
自分にとってこの年月は何だったのだろう。
私は負け犬なのか、ひょっとしたら。
1.17の赤いロウソクの光が神戸の公園を彩っている。
それは、私の怒りの炎でもあるのかもしれない。
10年一昔と言うが、少しも昔のように思えないのは何故なのだろう、本当に関東大震災はあるの?なら、早く大阪へ戻ったほうがいいのかな、安部邦雄