ある街を歩いている。
いま一つ元気のない街だ。
ほとんどの店はシャッターを閉じ、ふぞろいの落書きが街を無闇に汚している。
金を持った客がこの街にやってこなくなった、と人は言う。
持っていても、この街の店では買わないよ、と通りすがりの若者が言う。
そうか、ここは朝日のない街なわけだね。
何、それ?と聞かれる。
アニマルズのヒット曲のタイトルにそんなのがあった。
原題は We've got to get out of this place だったはず。
俺たちはここを出て行かないといけないというような意味か。
何故、「朝日のない街」なんてタイトルになったのか?
その前のヒット曲が「朝日のあたる家」だったから、朝日つながりでそんなタイトルにしたのだ。
大体、朝日のない街なんてタイトルはおかしい。
朝日がないわけがないのだ。
太陽がない街なんて、地球上ではありえない。(季節的にはあったとしても)
朝日がささない街というのは、ひょっとしたらあるかもしれないが、存在しないと言う意味の「朝日のない街」なんて、あるはずがないのだ。
ぼやき漫才の人生幸郎師匠なら何と言うだろう。
ーアニマルズのヒット曲、朝日のない街。
ーそれがどないしたん?
ー朝日のない街なんかどこにあります。みなさん。
ーぼちぼち、ぼやいてまっせ。
ーお日さんは、毎朝、東の空に昇ってくるのとちゃいますか。朝日がなかったら、夕陽はどないしたらよろしいねん。
ー好きにしたらええがな。
ー朝日がない街やったら、読売なんか喜びまっしゃろな、ああ、これで洗剤配らんでもええわゆうて。
何か、風邪の後遺症でわけわからんこと言いはじめているようだ。
話をもとへ戻そう。
朝日のない街のタイトルは確かに変で、ご都合主義的なものを感じるが、「朝日のあたる家」というのは実に見事なタイトルだと私は思う。
ライジング・サンという名の店、というのが元のタイトルで、そこは賭博場であり、決して朝日があたるイメージなどない。
むしろ、繁盛するのは夜という酒場でもある。
だが、「朝日のあたる家」と訳すことによって、場末の朝日のあたる木造の家のイメージが生まれ、変に詩心を刺激するものになっている。
まるで、青年が生まれ育ったところが「朝日のあたる家」で、そこから街に行き、堕落して行くというストーリーに思えたりするのだ。
とんでもない誤訳なのだが、私はこのタイトルが昔からとても好きだ。
だから、「朝日のない街」も、こんな希望のない生き方はやめて、あの朝日のあたる家に戻り一からやり直そうという解釈までしてしまうのだ。
確かに今歩くこの街は元気がない。
朝日もなければ、夕陽もないかもしれない。
だけど、希望だけは持とうよ、と私は思う。
僕たちには、昔、私たちを育んでくれた「朝日のあたる家」があったのだ。
今からでも遅くない。
あの家に帰り、又最初から始めようよ。
いつまでも、街は闇ではないはず。それを信じ、ともに生きよう。
♪シャーラーララララ、リブフォートゥデイ
今日はある人と待ち合わせし、1時間も待たされた、携帯電話は電池切れするし、散々、だから更新の中味もイマイチ薄いかも、安部邦雄