今日、大学時代の友人と会ってしばらく談笑した。
その中で、彼は「精神史」の話をした。
私が昭和をもう一度発掘しないといけない、このままでは昭和はその時代の人の死とともに消えて行くと指摘したからだ。
我々が生きた昭和の時代の精神と、今の時代の精神を現象の中から抽出しないといけないという話になった。
昭和を生きるもの達には、いくつかの思想的背景があった。
学生には、マルクス・エンゲルスであったりレーニンであったり、サルトルであったり、ニーチェであったりするわけだ。
日本人にも、高橋和己、埴谷雄高、やや右翼的には三島由紀夫がいる。
音楽的には、ビートルズがいたり、吉田拓郎、井上陽水などがいた。
時代的に、極めてイノベーター色の強い人物が輩出し、それまでの状況を下部構造とともに変えて行ったわけだ。
その後のバブルは、こういった進取の精神が切り開いた世界が、その持つエネルギーゆえに発生せざるをえなかった徒花なのかもしれない。
今や、精神史は停滞している。
時代を語る思想はもはやなく、唯一あるのが「バカの壁」。
こんな、時代への感想が、思想なのか。
失われた10年等と言う。
経済的にも政治的にもそうなのだが、思想史的に言ってもそうだ。
この間、あった思想は単なる時代の気分をおさめる箱でしかない。
昭和を語ろうとする私が忘れていたこと、それは昭和の精神史という視点だ。
私はただ、昭和に起きた事実をなぞろうとしていただけだったのかもしれない。
それじゃあ、浮薄なマスコミ人ではないか。
そう、大事なのは、昭和の精神史なのである。
昭和の事実を語っただけで良しとしてはならない。
そんなことを強く思った今日の会話だった。
といっても、旅帰りで少し疲れ気味の私。
今日の話には、あまり説得力がないかもしれない。
少し休んで、まとめ直そうと思っているので、御容赦下され、妙信どの?
急がず、地道に、でも可及的速やかに、今年は一直線に走り続けます、安部邦雄