昨日、「バカの壁」を思想ではなく、感想だと書いた。
別に養老先生を批判したわけではない。
ただ、今もてはやされる意見、或いは考え方は、思想としての体系を持ち得ていないと思ったからである。
思想には体系が必要だ。
人間にはバカの壁があるのというのは、時代への養老先生独特の感想ではあるが、そこには体系はないと言わざるをえない。
別に先生はそんなこと最初からわかっていただろうが、読む側がどうも考え違いを起こしているような気がしてならない。
バカの壁があろうとなかろうと、精神史的には何の意味も持たない。
人間の目には盲点があるとか、右脳と左脳は機能が違うと言っているのと同じである。
それは事実を語っているだけであり、その事実に照らし合わせて現実を批評しているだけである。
そのどこに体系があると言うのか。
前に書いたが、この欄は、私が現実の中から毎日何らかの法則性を見い出して、それを書き連ねる場にしたいと思って始めた。
もちろん、そんなことは無理に決まっていたのだが、何とか私はだましだまし毎日この欄を埋めてきた。
だが、その結果、何らかの思想体系が形作られたかというと、答はノーだ。
長いスパンで見れば、私の立ち位置は少しずつずれているだろうし、ある時に思ったことも普遍性を持たぬ間に意識の外へ消えて行ったりしている。
つまり、私もまた時代の持つ意識に確実に影響されながら、体系化されぬままうつろっている存在にすぎないのだ。
バブル期に、それをバブルだと思えなかった一人だったし、自分が人一倍働いていた時も、その働きの意味を充分には理解し得ないまま分かったつもりでいた一人だった。
今、気づく。
私には、時代の中に包含されている思想を認識する力はないと。
しかたがないのかもしれない。
飛行機に乗っていて、自分が空を飛んでいる実感がないのは人間なら誰でもそうなのだ。
地球は動いていても、人間には自分が動いていることはわからない。
だが、人はある日、それを脳で知ったのだ。
そして、私達の知は進化しはじめたのだ。
私の中の知よ、思い出せ。
感想は思想ではないのだ。
今、自分がいる位置を強くマークせよ。
明日、私のいる位置は、きっとそこではない。
座標軸を常に意識して、知を再構成しないといけない。
はて?どうやれば、私にそんなことができるのだろうか。
精神史なんて言い出すから、頭が混乱してしまっている、でも、これって意識しておかないといけないことだ、昭和を見つめ直す前に、自分を見つめ直さないとだめかもね、安部邦雄