我が友の訃報が届けられた。
声を失い、未来を失った友の病床で筆談した言葉が忘れられない。
健康を失うことは人生を失うことだ。
ある歌が、それからずっと頭に渦巻いている。
「同志は倒れぬ」という歌。
こんな歌詞だ。
正義にもゆる戦いに
おおしき君はたおれぬ
血にけがされたる敵の手に
君は戦いたおれぬ
プロレタリアの旗のため
プロレタリアの旗のため
踏みにじられし民衆に
命を君は捧げぬ
プロレタリアの旗のため、プロレタリアの旗のため・・
何故、そんなフレーズがリフレインするのか。
信念に基づいて生き、日々戦い抜いた男の墓標に立てるのはプロレタリアの旗しかないのだろうか。
長い間の私たちの苦労は何のためだった!?
自分のために生き、自分の損得ばかり考えて生きてきたのではなかろう。
己の損得で考えるのが当たり前になったのは、いつからなのだろう。
パレスチナやイラクの自爆テロを見ていると、少なくともあの人たちは己の損得だけで人生を考えてはいなかったはずだ。
神風特攻隊として、我が身を犠牲にして国のために戦った若者達も、おそらく己の損得は考えなかっただろう。
どうして、おれが?と思ったかもしれないが、誰かがやらなければいけないのなら、それがオレであっても仕方がないと考えたのだろうか。
イラクに出征していった自衛隊の諸君も、そんな気分であったのかもしれない。
しかし、今の日本、何にもまして己の損得が優先する社会になっている。
いつからそうなっってしまったのか。
私達は、70年代以降、確かに暮らしは裕福になったと言えるだろう。
だが、その代償に失ったもの。
それは、本当に失って良かったものなのだろうか。
プロレタリアの旗のため、プロレタリアの旗のため・・
今は人としての動きを止めた友よ、君はどんな旗を立てて、未知の暗黒へ旅立ったのだろうか。
私も含めて、あの頃の純粋な人の生き方を失っているのは否定出来ない、だから、私はもう古ぼけてしまったプロレタリアの旗のことを、人知れずリフレインしてしまうのだろうか、安部邦雄