器用貧乏という言葉がある。
器用なので、あれこれと手を出すのだが、結局ひとつもうまくいかないという意味らしい。
うまくいかない=貧乏というわけ。
最近の私、ひょっとしたらそんな状態かもしれないと思わないでもない。
この場合の貧乏は、精神的貧乏という意味。
色んなことを人に頼まれ、一つ一つ丁寧に対応していると、どんどん自分が追い込まれるのだ。
頼んできた人は、決して100%を求めているわけではない。
適当に対応してもらえたらというぐらいの気持ちだろう。
だめなら、別の人に言うか、やることを断念すればいいだけだからだ。
しかし、頼まれた私は今日も一生懸命走る。
望まれて仕事をさせてもらっているのだ、何とか形にするのが私の務めと無理をする。
年も50をすぎると、あちこちガタが。
ああ貧乏?貧乏?涙の貧乏?♪
いかん、いかん、こんなこと書いていると、また上柴先生から愛の鞭が?。(早く原稿書いてや?)
徒然草に「弓を習う」というのがあった。
弓を射るには、二本の矢を持つな。
最初のの一本を射る時に、まだ後の一本があると思って集中が弱くなる。
だから、矢はこの一本だけだと思って、全力を傾注しろ、みたいな話。
そう、リスクを分散するためかもしれないが、あれもこれもやるというのは、我ながら本当は感心しない。
安部君、あんたは結局は何がやりたいんだ、と聞かれかねないような気がするのだ。
経営者としては、お金になりそうなものは貪欲に獲得に走るのは当然なのだが、それが器用貧乏になっては何にもならない。
これこそ、我が仕事というもの、何があるのだろう。
サラリーマンなら、会社をやめて、一体何が仕事として自分に残るかという問題と似ているかもしれない。
会社であれもやり、これもやった。
だが、会社を例えば定年でやめたとして、後には何が残っているのか。
することなど、本当にあるのだろうか、と。
ま、これは今の私とは直接関係はないことだが。
一生かけてやる仕事、そろそろ自分の中でも分別していかないといけない。
器用に何でもやっていると、後には何も残らないなんてこともあるかもしれないのだ。
お互い気をつけましょう、ご同輩。
会社をやめて、失意のどん底に落ちた人を何人も見てきた、会社が唯一の社会との接点だった人は、やめてから自分が社会から孤立していることに気づくのだという、ひとりはやはり辛いのだろう、安部邦雄