<今日は日曜日だが、木曜日に事故とはいえ休ませてもらっているので、特別に更新することにした。
来週は多分休むつもりである。>
この欄にもよく書かせてもらっている、故白木龍雄元FM大阪副社長の言葉を思い出した。
ジャーナリストは自分の思想を語るな。自分の感想を語れ。
一種の処世術というか、哲学みたいなものだと私は思っている。
一人の人間として、思想とかイデオロギーを語るのは自由だ。
だが、ジャーナリストであろうとするなら、「何とかは何とかであらねばならぬ」みたいな表現はなるべく避けよという話だった。
もし、それに近いことを言いたければ、私の感想だが?な感じを禁じ得ないのだが、皆さんはどう思うか、みたいな表現にしろと言っておられた。
ネットで自分を表現できるようになって、私の中でこの言葉の重みが増してきているのを感じる。
私はこう思う、はいい。
だが、何とかはこうである、何とかはこうである、だから何とかもこうである、というような断定はなるだけ避けた方がいい。
断定することによって、ネットは簡単に表現者にレッテルを貼りかねないからだ。
こういうことを言う奴は、ウヨとかサヨとか。
こんな発言をする奴は、反日だとか、バカだとか。
世の中、そんな二分法が見事にあてはまる例など少ない。
意識もまた、正規分布の法則にしたがって、適当にばらつくものだ。
だが、それでは情報としては重くなる。
だから、なるだけ簡素化し、軽くしようとする。
それが、レッテル貼りである。
くり返すが人の集団は、見事に正規分布の法則に従うことが多い。
左にしても右にしても、中央の頂点を境にほぼ同じ形で分布すると考えてよいのではないか。
だから、こういう考え方をする人は右とか左とかは、一概に言えない、他の指標を見ないと何ともいえないはず。
だが、それでは重いから、他の要素は捨象して、単純に単純に人間を分類しようとする。
これがネットが作りやすい世論というものの実相ではなかろうか。
だから、ジャーナリストはできるだけ、自分の表現を簡便化しないほうがいい。
つまり、断定しない方がいいということになる。
それでなくとも、ネット・ユーザーは人の意識を簡素化したがる傾向にある。
地道な努力は無縁、すぐに答えをどこかに求めたがる。
自分で考えろよ、もっと知の訓練をしろよとは思うが、そんな余裕を持つ前に、勝手に指がキーボードをたたいているだろう。
テレビゲームと同じ、脳がマトリックスの中から真理を見つけだす前に、せき髄反射で答えを簡略化してしまっている。
それを自分の能力、知力と勘違いしてしまいかねない。
そんなネット・ユーザーと対峙するのは大変だ。
だから、一人のジャーナリストとして今後も表現したいなら、断定はなるだけ避けた方がいい。
白木さんの遺言のような気が最近してきている。
既述だと思うが故白木氏は朝日新聞OB、その新聞も最近はジリ貧模様で、さぞ草葉の陰で呻吟していることだろう、安部邦雄