入力と出力、英語でいうとinput & output。
養老先生が脳の入力と出力について書いていた。
入力は、例えば本であったり、テレビであったり、人の意見だったりするが、出力は常に筋肉運動だと言う。
何らかの筋肉運動を通じてしか、人は出力しない。
サイコキネシスが存在するというなら、又話は別になるが、養老先生は端からそんなことは信じてはいない。
行動なき理論は無、理論なき行動は死、という言葉を思い出した。
学習ばかりしていても意味がないし、学習しないで行動するのは危ういというわけだ。
養老先生は、入力と出力のらせん的反復が学習であるとされていた。
同じことを何度も何度もくり返す、その繰り返しの中に技が生まれ、智が生まれるのだろう。
基本はくり返しの中から生まれる。
泳ぎ方の本をいくら読んでも。人間はその通りに泳ぐことはできない。
なるほどである。
話は少し違うが、じっとしているのが嫌い、常に動いている、働いているという人がいる。
率先して動く、その人が手を休めているのを見たことがないという風に。
前にも書いたが、今は閉店してしまったウェンディーズの店員さんはいついっても、手を動かしていた。
顔は笑ったり、同僚と言葉を交わしたりしていても、手だけは何か作業をしていた。
この人にとっては、自分がウェンディーズの顔である時は、動き続けるべきだという原理があったのだろう。
長い間の入力と出力の繰り返しが、彼女の態度を作ったというべきか。
問題は、どうしてそういう繰り返しのサイクルを、自分の中に取り入れるようになったかである。
よく働く女性というのは、私の周りにもいる。
一人は、このサイトの「安部邦雄全仕事」の初めの方に出てくる真理ちゃんである。
この人、一緒にパーティなんかを開くと、本当によく動く。
料理は、どんどん自分で作るし、テーブルに色んなものを並べるし、飲み物の手配も完璧。
みんなは、飲んだり食ったりお喋りしているだけなのに、彼女はずっとサービスに励んでいる。
一緒に後片付けをしながら、私は言った。
「御苦労さん、でも、働いているばかりで楽しめなかったんじゃないの?」
「ううん、とっても楽しかったわよ?。」
目が笑っていた、嘘じゃないみたい。
働き続けることが楽しいのかもしれない。
ランナーズハイ、みたいなものなのかな。
もうひとりは、もう80歳をすぎたが元気に老人会活動をしている我が母。
確かに、昔から一日中働いている。
じっとしているのが嫌いなのか、止めようとしても止まらないのか。
立派なものだといつも感心している。
ただ、家族の誰もその母の気質を継承していないのが残念。
私なんか、母と比べられたら、ナマケモノ以外の何ものでもない。
やっぱり行動なき理論は無なのだと実感する。
寺山修司は「書を捨てよ町へ出よう」と言った、今は書斎に隠っている場合ではない、行動する時だ、そんなメッセージだった、そう、21世紀になってもこの言葉は生きているはずだ、安部邦雄