定年をニ年ほど残してリタイアし、自分で会社を始めた人がいる。
その人がなかなか鋭い指摘をされていたので、ここに紹介させてもらう。
最近、ぼくの周りに会社を定年で辞める人が増えている。
社内でそこそこの地位にいて、溌剌と働いていたその人たちだったが、定年後は一言でいって大変である。
辞めてからでも、自分なら何とかなるだろう、何かあるだろうと思われているようだが、
殆どの場合、何もないというのが一般的だ。
在任中に定年後の処し方を決めていなければ、そこには真っ白な時間が永遠に続いていると言うイメージしかない。
何かあると思っていたのは、錯覚だったのか、自分が甘かったのか、そう自問自答し、たいていはみるみる自信を失って行くようだ。
孤独感、無力感、会社で働いていた時がまがりなりにも充実していたので、その落差に自分をコントロールできなくなるのかもしれない。
そうそう、この前ある定年を迎えた人が、遊びに来てこう言っていた。
私もついに定年です。
しばらくは旅行に行くなどして、充電期間を置き、その後ゆっくり何をするかを考えるつもりです。
確かにこういう考え方はわからないでもない。
だが、悪いが旅行へ行ったり、しばらく休養したりしても、それは充電期間にはならない。
会社をやめたら、後は放電期間と考えるのが正しい。
誰も充電してくれない、何の生産物も生み出せないのなら充電のしようがないと思う。
毎日が放電の日々。
会社にいるから、有形無形のエネルギーが注入されるのだ。
ただそこにいるだけで、給料だって払われるのだ。
だが、これからは、そこにいるだけでは放電する一方。
どこに充電期間があるというのだろう。
だから、しばらくすると、彼等はどんどん衰退して行く。
前のような自信も、漲る生命力も目に見えて衰えて行く。
放電仕切った電池はもう使い道がない。
定年をこれから迎える人、本当に心してもらいたい。
そこには充電期間はもうない。
貯金が日々消えて行くように、あなたのエネルギーも又衰えて行くのだ、と。
その人の話は以上である。
なるほどと感心しながら、私は暗い夜の街に出て、家路を急いだ。
命長ければ恥多しと書いたのは兼行法師だったか、定年と言うのは、文字どおり精一杯働ける限界の年という意味なら、もう少し人々の悩みも少なくなるのではないだろうか、私にとっても他人事ではない、安部邦雄