精神的に行き詰っているなあと思った時、いつも気づくことがある。
それは、しばらくまともな本を読んでいないという事実だ。
読み散らかすような本は、まともとはいえない。
前にも書いたが、良い本とは、読む前と読んでからでは世界の見え方が違う本だ。
何かのために使えればそれでいい、というような本は駄本としかいいようがない。
自分の知らない情報、それも普遍的に意味のあるものを探しだす、それが読書の喜びでもある。
そんな経験が減れば、精神的に行き詰るのは当たり前だ。
何か面白いことないですか、等と言いながらうろうろするより、良書を探して読んだ方が合理的である。
テリー伊藤氏と養老孟司の対談本をある書店で立ち読みした。
悪いがテリー氏の話は、買ってまで読む価値は私にはない。
養老さんがテリー氏の問題意識をどう料理するのかだけを注意してぱらぱらとめくってみた。
案の定というか、ほとんど話がかみあっていない。
テりーさんの話は、一般人が読み散らかして面白いという種類のもので、普遍性はほとんどない。
何年かたてば、どんどん古臭くなるだけの話である。
養老さんは、そんな一般人の意識にテンポラリーに対応するのは無駄の一言である。
それじゃ本にならないので、適当に話をあわせているだけのように私には思える。
先ほどの本の話に関連することだが、養老さんはこんなことを言っていた。
アルキメデスは、アルキメデスの法則を考えついた時、確実に世界は変わった。
今まで疑問だったことが、その時から一つの普遍的な原理で統一できるようになった。
それは一つの発見だが、アルキメデスはそれを知る前と知った後では、確実に人格は違うと考えた方がいい。
昔の法則を自覚できないアルキメデスは死に、新しいアルキメデスがその時から生まれたのだ。
これは比喩なのか、それとも実質的に人の脳細胞は変わってしまうのか。
日々生き変わり、死に変わるのが人の定めともいわれている。
読書を通じて、人は死に、人は生まれ変わる。
夢おろそかにできないことである。
佐野眞一さんの本を読み続けている、読者で大事なのは頭で分かる人ではない、分からないけど感じる人なのだという、ラジオの世界も確かにそうだなと思いながら、空港でたこ焼きをつまんでいる、安部邦雄