「駕篭に乗る人担ぐ人、その又わらじを作る人」って言葉、御存じだろうか。
広辞苑には「境遇によって甚だしい差のあること、又、人と人との社会的なつながりを示すたとえ」とある。
スポットライトを浴びる人、その人を支える人、そして縁の下の力持ち。
境遇は違えど、誰一人欠けても世の中は回っていかないと人を諭したりする時にも使う。
私がいて、私を支えるはずの家来がいて、その家来には家庭を守る嫁がいる。
誰が欠けても私どもの会社はうまくいかない。
だから、多少給料が安くても文句を言わず働きなさいという意味にとれないこともない。
納得?
とはいえ、こんな理屈を振り回しながら私ばかり駕篭に乗っていたら、きっと家来どもは反乱を起こすであろう。
要は、何ごともほどほどが一番ですよの意!・・なわけはないか。
でも、この譬えは、ちょっと好きなほうである。
同じように「人は石垣、人は城」という言葉も好きだ。
昔の人は本当にいいこといいますね。
先日読んだ堀場雅夫さんの『仕事のできる人できない人』にこんな表現があった。
「アリの理論という組織論では、働きアリの集団は必ず二対二対六に分かれるという。一生懸命働いて集団を引っぱっていく優秀なアリが二割、落ちこぼれが二割、残りの六割がどっちつかずのチンタラ組というわけだ。」
これは会社でも同じで、優秀な社員で精鋭部隊を作っても、結局二割のダメ社員が発生するという。
これは、その通りであろう。
統計でいう正規分布である。(説明要ります?)
正規分布で一番よく使うのは偏差値だ。
偏差値で集団のどのあたりに居るのかがわかるのも、集団が正規分布するという前提があるからにほかならない。
ま、こういう表現では誤解を与えかねないと指摘されそうなので、この話はこれぐらいで。
私も会社勤めを始めた頃、社員のこの分布には驚かされたものだ。
優秀な大学を優秀な成績で卒業したはずの、優秀な社員の皆さんが、何故かしばらくすると、仕事ができる人とかえって邪魔になる人などの区別が出来てくる。
私はこの現象を神輿を担ぐ人が二割、担いでいるふりをしている人が六割、神輿にぶら下がっている人が二割いると分析した。
おそらく、人の集団はそういう形で正規分布するであろうと考えた為である。
私は一介のサラリーマンにすぎない。学者として考察したわけでもない。
ただ、おかしいではないか、何故仕事量も仕事の質も違うのに、給料だけが同じなのだと義憤にかられたのである。
頭に来たのである。
冗談じゃないよ!とキレかけていたのである。
しかし、私はどちらかというと常に会社集団では優秀な働きアリだったように思う。
もちろん、別の集団では典型的なチンタラアリだったり、無責任な文句たらたらアリだったこともある。
人は集団となったら、色々に変化する動物である。
その又わらじを作る人も、一生作り続けた時に、その人なりのプライドが生まれたりもする。
考えてみれば、陶器であれ、建具であれ、最初は何でもない生活道具だったはずだ。
それが何百年の歴史を経ると、何でもないものがとんでもないものに変わったりもする。
光もあたれば権威もつく。「いい仕事してますねー」などと歯の浮くようなことも言われたりするかもしれない。
世の中何があるかわからない。
文句をいわず、おとなしく私の言うことを聞け!家来どもよ、ということになる(?)と思うのだが、そのあたりいかがでございましょうか、家来の皆さん方よ。
やっぱり駕篭に乗っていたい、安部邦雄