歌舞伎座の隣にあるカウンターだけのそば屋である。
朝10時ぐらいから、午後5時ぐらいまでやっている。
基本的には、歌舞伎を見に来る人に合わせて店を開いているようだ。
材料がなくなったら、あっさり閉めてしまう。
客にはそれほど優しくない店。
初老のオジサンが一手に調理を引き受けている。客はたいてい満杯。いちいちそばを茹でるから待ち時間は長い。
それでも、客は途切れることはない。
それだけ、うまいのである。
おまけに安い。もりそば370円。かき揚げがつくと、490円である。
かき揚げがこの店の名物。たいていの人の注文がこの「かき揚げそば」か「かき揚げもりそば」。
お客さんも様々。歌舞伎の役者さんも気楽にこの店にそばを食べにくる。
一度、私の横で藤(富司)純子さんが、ご贔屓と思しき上品なおばあさんと、並んでそばを食べておられた時には、ちょっと緊張してしまった。
高そうな着物と安っぽい店のたたずまいは全く調和していなかったが、それでも、後でとても心和んだものである。
しかし、この店のオジサン。
私の見ている限り、ずっと働き通し。
無駄口も聞かず、黙々とネギをきざみ、タマネギをきざみ、かき揚げを作り、そばをゆがき、大量の水でそばのぬめりを取り、ひとりひとりの注文をさばいていく。
おそらく、この店はこのオジサンがいなくなれば客はがた減りすることだろう。
せいぜい、このオジサンが働いている間に、この店に通って来よう。
この人の味を受け継ぐ人はおそらくいないだろうから。
前にも、弟子にしてほしいという若い衆が、しばらくこのオジサンの下で働いていたが、いつのまにかいなくなった。
オジサンは、弟子など育てる気はないのだろう。
俺は俺のやりたいようにやる。ついて来られるやつ以外は相手にしない。
きっとそう思って、今日も又、サクサクサクとタマネギをきざむ。
これが江戸の粋なのか、そばをずずーと吸い込みながら、私はオジサンの手許をぼーと見つめていた。
でも、そばはおつゆに全部つけたい、安部邦雄