高校の卒業アルバムを覗くと、私のクラスの寄せ書きが載っていた。
まん中に「大器晩成」等と書いてある。おそらく、担任の先生が書き込んだのであろう。
大器晩成と書くと、何となくおさまってしまうのがおかしい。
器の大きい人間は大成するのも遅くなる。だから、今は実力がないように見えても心配するな。
最後に勝つのはお前だ。だから、頑張れ!
先生というのは概してこういう表現をするのが好きなようである。
大器晩成と言っておいたら、罪がない。たとえ、晩成(?)しなくっても知ったことか、だろうなあ。
無責任な励ましである。あまり好きな言葉じゃない。
このクラスは大器晩成のクラスだ。
なんて、ホームルームで宣言していた先生もいた。
何を言いたかったのだろう?
お前らみんな今は大したことないが、その内、年とったらなんとかなるだろう、ということなのか。
こんなセリフを吐く先生って、今も一杯いることだろう。
千里の道も一歩からとか、人生至るところ青山ありとか、色々人生訓を垂れるための言葉があるが、大器晩成だけは願い下げだ。
どう解釈しても、単なる慰めの言葉にすぎない。
本当に大器だったら、ほっておけばよいのだ。過程の問題で一喜一憂するような奴が大器なわけないだろう。
人間には瞬発力と持久力があると思う。
若い時には、主にこの瞬発力の戦いが多い。運動にしても、勉強にしても、そんなじっくりやるようなジャンルのものは少ないはずだ。
年をとってからは、持久力の戦いが始まる。
継続こそ力なりという格言が本当に真実だと思えるようになる。
継続の単位は年である。若い頃は日にちだったり、時間だったりするが、結局は人間の勝負は年単位で来まる。
違いますか?
こんな説教話を書くつもりはなかった。
ある先生のことをちょっと書きたかったのだ。
中学校3年の時の先生で、名前は確か山本先生だったと思う。
今までで、心から尊敬に値すると思ったのは、この先生だけだった。
風采の上がらない先生で、顔もお世辞にも良いとはいえなかった。
家にも遊びにいったことがあるが、生活ぶりも質素で、奥様には頭が上がらないという印象を持った。(奥様は珠算塾の先生だったと思う。)
おそらく出世はされなかっただろう。行けて教頭どまりではなかったろうか。(誰か、その後の消息御存じありませんか?)
で、何故私が山本先生を尊敬したか。
ホームルームでの教訓話がとても素敵だった。格言を墨で書いて、今月の言葉という風に教室に掲示された。
その言葉も中3の私にビンビンと響いた。もっと言葉を教えてほしいと思ったものだ。
月の初めに言葉を変えられたと記憶するが、その変えられる日がとても待ち遠しかった。
ひねくれものの私だったから、先生は私がそんなに評価しているとは思われなかっただろう。
「安部君には申し訳ないことをした。謝らないと。」という言葉を卒業後私の親に仰られたそうである。
何故先生がそんなことを言われたのかはここでは書かないが、謝る必要なんかまるでない。
頭を下げるのは、私である。まるで、仏陀の説法を聞いた後、仏陀が「最後まで聞いてくれてありがとう。」と頭を下げられたようなものである。
勿体無くて、勿体無くて、身の置きどころがない。
今では、山本先生がどんな教訓話をされたのか、何も思い出せない。
ここに書けないのがとても残念だが、ひとつだけ、先生の尊敬すべき態度を記させていただく。
それは、先生が全く生徒を差別しなかったことだ。
優等生も不良も留年生も可愛い女の子もそうでない子も。
だから、先生は決して出世しない。私は悲しいがそう思う。
それゆえに私は今も先生を尊敬する。
まっとうな人は、人を押しのけて生きていくことはできない。人生を得か損かで生きている人は、決して人を平等に扱うことはできない。
先生という職業ならなおさらだ。
ロビン・ウィリアムスの「今を生きる」という映画を覚えておられるだろうか。
私には、山本先生はあの映画のロビン・ウィリアムスそのものなのだ。
だから、あの映画を見た時、私は泣けて泣けてしかたがなかった。
去っていく先生にできることは、やっと机の上で立ち上がることだけだった。
私もそうだ。でも私は先生を忘れない。その出会いを忘れない。そして私も又、その先生のように生きていきたい。
大器晩成なんて、軽はずみに語るなかれ。
わが友人の教師達よ!
金八先生が偽善者に見えて仕方がなかった、安部邦雄