2000年を越えたあたりから日本でも顕著に社会現象化してきたのが児童虐待。
あんな幼気な子供に何て惨いことをと憤る人がほとんどだろう。
私は大学時代教育心理学を専攻していた。
今から30年近くも前のことだ。
その頃でさえ、既に児童虐待は問題になっていた。ほとんどがアメリカで起こっていたことだ。
30年かかって、日本でも同じような現象が起きて来たというわけだ。
先ほども言ったが、ほとんどの人が自分の子供を虐待するなど信じられないと思われるだろう。
そう、95%の人は児童を虐待なんかしない。
又、95%の人は無闇に人を殴ったりはしない。
又、95%の人は自分の欲望の為に人殺しをしようとは思わない。
又、95%の人は理由もなくアジア人を差別したりはしない。
では5%の特別な人が、これら社会的犯罪を犯し、社会問題化するようなことをするのか。
事実を言えばその通り。
前にも言ったが、社会的構造の中で人々は正規分布する。
意識は共有しているし、その濃度はほぼ正規分布する。
ややこしい話になるので、この話は改めて。
児童虐待の話に戻ろう。
児童を虐待する理由は簡単だ。自己の欲望を子供が阻害するからである。
自己の欲望を理屈のわからない存在にせき止められたら、誰だって若干のフラストレーションは起きるだろう。
しかし、普通の人はこのフラストレーションにいつまでもこだわってはいない。
しょうがないなあ、相手は子供だから、と納得するだけである。自己合理化とでも言おうか。
ところが、人によってはこの自己合理化が下手な人がいる。
たまりかねた親は、児童を虐待する形でそのフラストレーションを子供にぶつける。
後はそれのエスカレーション。子供は、自己合理化するには幼すぎるので、一方的に精神的障害を負う。トラウマである。身体的障害なら、まだましな方だ。
ルナールの「にんじん」を読んだ時には、私は彼がとても可哀想だと思った。
伊東四郎に虐められる「おしん」もとても可哀想だと思った。
でも、これらの最後にはカタルシスが待っている。
人々は、とりあえず救われた気持ちになっただろう。
児童虐待にはカタルシスがない。
親も子供も救われない。
意識は正規分布する。
私達を絶望的にする現象は、表面に出て来た意識の切れ端でしかない。
児童虐待をやめさせる術は今の私達にはない。
やめよう!と呼びかけてもそれはさほど意味のあることではない。
共有している意識が表面に出て来たとしたら、それを切開することは私達すべてをどこかで傷つけることになる。
それが、痛みである。
構造改革を語る時にも出て来る、私達すべての痛みである。
自分は関係ない等と言う人は正確には存在しない。
痛いのは既得権者だけだというのは、厳密には間違いである。
世の中はそんな都合良くはできていない。
一つの木を引っぱり出せば、周りの土壌が根こそぎ掘り返される。
アスパラガスのようにスッポリぬけるものではない。
抽象論すぎたかもしれない。
とりあえず、秋の初めにこれを書きとどめておく。今回で提起しかかった具体論は、冬までには展開していくことにしたい。
つまりさあ、感覚的には違和感があっても、どうしていいのかわかないんだよね、安部邦雄