宮沢賢治の話をしようというわけではない。
少し自分の生きざまを語ってみたいと思ったのだ。
雨ニモマケズは大変有名な詩だ。
これこそ賢治の生きざまだという人も多い。
私が、見習いたいと思ったフレーズは一番最後。
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ
でくのぼう、とはあまり言われたくないが、
後は私もそうなりたいと思う。
ほめられもせず、苦にもされないという人生は、どれだけ静寂だろうか。
ほめられたい、皆から好かれたいと思って、人は毎日無理をしている。
それが、人の理想と教えられたからだろう。
無理をするから、人は階段を昇れるのだ。
その努力が、人を作るのだ、立派な大人になれるのだ。
でも、本当にそうだろうか?
ほめられもせず、苦にもされない人生が理想だと考えた方が、どれだけ楽だろう。
どれだけ、人のためになるだろう。
権力欲なんて毛ほども思わない、そんな人生のほうが、どれだけ幸せだろう。
でも、それができないのが人間なのだ。
人間なんて、ラララなのだ。言葉の上で偉そうに言ってみても、誰も神にはなれない。
賢治の作品で一番感銘を受けた小説は「グスコー・ブドリの伝記」だ。
火山学者ブドリが自分の生命を犠牲にして民衆を救うというストーリー。
結局自分が身をもって救おうとしない限り、人はその価値を理解しないという、民衆に対する諦念があふれた作品だ。
人は愚かである。
だからといって、それを責めてみてもしかたがない。
愚かさ故の間違った行いを、言葉で正そうと思ってもそれは無理だ。
それこそ、人の愚かさゆえだ。
愚かなものが、愚かなものに対してお前は間違っていると言い立てる愚かさ。
ならば、その愚かさに殉じるために、己の命を犠牲にする。
その時、初めて愚かな人間は、愚かな迷いから解放されるのかもしれない。
それができないのなら、
ほめられもせず、苦にもされない人生をめざすしかない。
同時テロの実行犯も愚かな民衆を目覚めさせようと、その命をささげたのかもしれない。
アンドレイ・タルコフスキー監督の「ノスタルジア」で、世界を救うための演説を残し、焼身自殺する老人も、同じようなレベルで民衆の愚かさに苛立っていたのかもしれない。
所詮は人間、神にはなれない。
正義をふりかざし、己を押しつけることの愚かしさよ。
だからと言って、私がここで何をどうこうするわけでもない。
なら、黙っていた方が、本当は人の正しい生き方なのかも。
言葉がループする。
それも又、言葉に頼るしかない、人故に?
ああ、悲しき我が心? クレイジー第三弾、安部邦雄