電車の中で、若い人はたいていコンパクトを見るように、携帯電話を見つめている。
たまに、親指でごそごそ。
メールを打っているのだろう。
大きな声で電話されるよりもましだが、その行為にあまり知性を感じないのは何故なんだろうか。
これが、本や雑誌を読んでいるとしたら、ちょっと知的なイメージもあったりする。(漫画とかゴシップ誌とかは別だが)
携帯電話を使う行為にはノーブルさがない。
何故なんだろう?
ゲームボーイで遊んでいるのと同じイメージだ。
そこにあるのは、動の形。
読書しているのは、静の形。
知のイメージは静の形と対応しているのかもしれない。
動いているものには、遊のイメージはあっても知のそれはない。
日本の美は動かないものの中に潜む。
携帯電話は動き過ぎる。それゆえ、そこには美はない。知もない。
動かないイメージの携帯電話なんて存在するだろうか?
知と美を重んじる人には、携帯電話そのものが忌避する対象かもしれない。
電話というコミュニケーション手段が嫌いと言う人も多いはずだ。
電話には知も美もないとも言う。
不思議と、インターネットは忌避されない。
インターネットには知も美もあるらしい。
言葉が口から出る時には、言霊が一緒に出て行く。
インターネットはどうだろう?
文字からは、言霊は産まれない。
それを口に出して読んだ時、初めて弾けるように外へ出て行く。
まるで、添付書類をあけると飛び出すウィルスのようだ。
私は、携帯電話をもちろん持っている。
便利なものだと思う。
ただ、コミュニケーションの中心に携帯電話を置こうとは思わない。
社会生活を円滑に行う為のツールのひとつとしてしか意識していない。
魔法のリモコンになってほしいとも思わない。
そうなったら、なくした時の衝撃度に耐えられなくなるだろう。
写真をとりたいとも思わない。
携帯のメルトモもほしくない。
お前はただの電話だ、でしゃばるな。
出しゃばる携帯電話。出しゃばらせるユーザー達。
そろそろ私の携帯電話も更新時らしい。
はて、どうしたらよいか、と考え中の今日この頃である。
あなたの携帯はどうだろうか?
知的に見える携帯電話って、欲しくありませんか?安部邦雄