大学で習ったことのシリーズです。
今回は「無意図的教育」についてです。
英語で言うと、un-intentional education。
意外と大事な概念なんですよ。
意図的教育(intentional education)というのは、普通の教育のしかたですね。
「この子にこの事実をこういう風に教えよう。」とか、「大体こういう風な生徒はこういう問題を抱えているから、それを解決しながら教育しよう。」とか、ですね。
こういう意図的な教育の反対が無意図的教育です。
ひとことで言うと、そんなつもりはないのに、子供がそういう風に学習してしまったということです。
反面教師というのがありますね。
「あんな風になってはいけない。」と子供が自発的に学習してしまうケースです。
あんな親になってはいけない、あんな人間になってはいけない、などです。
その人間は何も、私のようになってはいけない、などという教育的意図はありません。
しかし、それを見ているものは、知らず知らず、そういった態度を学習します。
門前の小僧、習わぬ経を読む、などというのもそうです。
孟母三遷の教えなども、この範疇かもしれません。
ただ、孟子の母は、それに対して自覚的だったと言うことでしょう。
無意図的教育を排し、意図的教育の世界のみを良しとする教育者的態度です。
この態度、いわゆる教育者や優秀な保護者と呼ばれるような人に多い態度です。
「私があの時こう言ったから、あいつは結果的にうまくやることができた。」なんてことを言う上司も意外と多いんじゃないでしょうか。
会社のセミナーなんてこの亜流が多いんですよ。
答えを持った講師がいて、その答えに向かって受講者を導く、それが教育だと思っている人があまりに多い。
でもね、違うんですよ。
教育と言うのは、意図的なものも意図的でないものも含めて、教育なんです。
自分の都合のいいように、子供達は動いてはくれませんし、学習するわけでもありません。
自分の子供の頃を思い出せばよくわかる話じゃないでしょうか。
だから、文部省(文部科学省)が学習指導要領を変えれば、子供達により理想的な学習結果を与えることができるというわけではありません。
逆に日教組が左翼教育を意図的に行おうとしても、社会状況が合わなければ、思ったほど学習効果等あがるはずもありません。
入り口と出口が同じではない、それが教育なのです。
無意図的教育で大事なのは、教師の態度そのものだということは、何となくおわかりいただけることでしょう。
自明性が意識の陥穽なら、無意図的教育も同じように意識の穴なのです。
ということで、まもなく日が変わりそうなので、今回はここまでにしておきます。
でも、こんな話題面白くないですか?
最近あまり反応がないので、少し困惑しております。
でも、このシリーズ、まだまだ続きがあるんですけどね。
内容を訂正していたら、日が変わってしまった、安部邦雄