昨日は、無意図的教育(unintentional education)の話をいたしました。
実は、教育と呼ばれるものの、ほとんどがこの無意図的教育なのです。
意識して教育していることなど、ほんの微々たるものです。
知らず知らずに覚えるのが学習の一番能率のいいやりかたでもあります。
「みるみるうちに数学が理解できる本」なんてタイトルは訴求力があるようです。
「知らず知らずに英語が聞き取れる本」なんてのも魅力的ですね。
その仕組みはよくわからないが、想定していた結果がそれで得られるなら、それはそれでいい。
子供がイイ子に育ってくれれば、それで十分ですという親御さんもおられるようですし。
本当は教育学は、これらのメカニズムを正確に把握し、方法論を提起するのが使命といえば使命なのですが。
教師は、それを正確にトレースすれば子供がそのように何の間違いもなく学習する。
理想といえば理想なのですがね。
おそらく教師が完全にロボット化し、人間の発達段階に合わせて正確に方法論をトレースすれば、子供の学習成果は現在の比ではなくなりましょう。
インターネット教育論が次に来るわけですが、これも実際にどうなんでしょうねえ。
私の行った大学には、CAIという講座がありました。
Computer Assisted Instructionの略です。
コンピュータを使った教育とでも訳しますか。
私も端の方で、この作業を見させていただきました。
コンピュータで人間を教育するのか、すごいなあ、と本当に思いました。
まだ一部屋すべてがコンピュータの時代ですよ。
キーボードから直接データをCPUに送り込める時代じゃなかったし、そりゃ、色々と大変。
こんなの普及するのかと疑心暗鬼でしたね。
ちょうど大阪万博の頃で、テクノロジーとしては成立しはじめていたんでしょうねえ。
主任教授がこれは夢だけど、と言ったのがこのセリフ。
「大阪の人だったら、電話線さえあれば教育可能になるはずなんだけどね。」
図書館のように、ここで作られた教育データが使えるようになるというわけです。
電話線一本で。
その頃の電話のイメージって、今とはずいぶん違います。
ダイヤル式、色は黒。プッシュホンなし。
市外電話は、値段を確認する為に100番で、という時代。
電話で、どうやって教育を受けるんだ?
インターネットがその回答だとは、残念ながら全く想像出来なかった私だが、70年ごろからある程度のイメージはその頃の研究者にあったというべきでしょうね。
インターネットで教育が本当にできるのか?
教育学が新たに問われていることでもあります。
ちょっと、大学院でも入り直してやってみようかな、と思っております。
興味はまだ続いていると言うことですね。
それと、教育を語る時に忘れてはならないことがあります。
それは、哲学です。教育哲学といいます。
哲学のない教育は危ういのです。
ロボットが時の権力者の言うまま、民衆を教育するなんてまるでSF小説の中の全体社会です。
この話も長くなりそうなので、教育哲学の話は又明日。
さあ、今日はこれから忘年会だぜ!
永久に生きると思って学ぶつもりの、安部邦雄