昨日のとおる先生の言葉で、一番心に残るのが次のフレーズ。
『その場の空気っちゅうものがおますやろ?』
空気を読め、ということでしょう。
話し上手という方は、この「空気を読む」ことの達人が多そうです。
ばくち打ちの名人もそういう方が多い。
「ええか、場の空気を読むんや。」
マージャン、花札、競馬や競輪、ポーカーにバカラ。
考えたからといって勝てるものではない。
場の空気さえ読めれば、瞬間的に正しい判断ができるはずと名人上手はおっしゃるのだろう。
戦争等もそうなのかもしれない。
「コンバット」のサンダース軍曹も空気を読む達人のひとりなのだろう。
最小の犠牲で最大の効果をあげるにはどうしたらよいか。
日々、その判断をしつづけるには、とても脳の助けを待ってはいられない。
勘を働かせるという言い方もできそうだ。
話が少しそれかけた。
私は、話上手という人は、おしなべて場の空気を読みながら自分のストーリーを語れる人だろうと思う。
関西の芸人さんと関東の芸人さんのどちらが面白いかというと、これは誰が考えても関西の方だろう。
つまり、関西の芸人さんの方が空気を読むのがうまいということになる。
子供の頃からずっと人と接しながら、この「空気を読む」訓練をしている。
そうしないと、関西ではヒーローになれないからだ。
漫才などでは、息を合わせるなんて言い方もする。
つまり、どちらにせよ、独りよがりではダメということだろう。
自分の頭だけで話を作るのではなく、相手の顔を見ながら呼吸を合わせていくことが大事なのだ。
とおる先生、そうではありませんか?
昔から、「話上手は聞き上手」という言葉がある。
本当に話し上手な人は、相手の話を聞く人だという意味だったと思う。
でも、これはどうだろう。
話し上手な人は、同時に聞き上手であってほしい、という一般的な願望にすぎないのではないか。
話し上手な人は、何も聞き上手である必要はないのではと私は思う。
聞き上手の人はとても好ましい存在である。
私もそういう人を周りに10人ぐらい持ちたいものだ。
でも、その人たちは話し上手である必要はない。
聞いてくれるだけでいいのだ。
大抵の人は、誰かに自分を話したいと思う。
話すと、それだけですっきりする。
アメリカで大はやりのサイコセラピー(精神分析)なんて、その典型ではないか。
ここで、私は又自己矛盾に陥る。
私の専攻は教育心理学だった。
カウンセリングなんか、重要な学習課題であったはず。
だったら、それを修めたものは、少なくとも聞き上手であるべきではないのか?
何で人の話を聞かないで、自分の世界ばかり話すのだ。
うーん、つまり「紺屋の白袴」なわけですかね?(答えになっとらんけど)
てなわけで、今日も自分勝手な話になってしまいました。
自己反省って、これはこれでとても難しそうです。
性格は一朝一夕には変わらんわけで、ゆっくり自分を見つめ直す心の旅をするつもりの安部邦雄