FM大阪に白木龍雄という方がおられた。
私が入社した時の放送部長である。
後に代表取締役副社長まで登り詰めたが、病気のため退任。
2年前の1月に亡くなった。
今年は3回忌ということになるのだろうか。
私のFM大阪での人生は、ほとんどこの白木龍雄氏と共にあったといっていい。
朝日新聞出身であることを誇示し、自分の人脈を披瀝し、そして社内では極めてワンマンな態度で社員を掌握していた。
敵も多いが愛すべき人でもあった。
私がFM大阪の入社試験を受けたのは、1973年の夏だった。
面接で、ふんぞり返りながら、偉くきついセリフを吐いていたのが白木氏だった。
ある学生が「私はポップスのことだったら、誰よりも良く知っています。」と不用意に口をすべらせた。
白木氏は何を生意気なという調子で一喝した。
「ポップスを知っているなんて奴は世界に死ぬほどおる。そんなことで自分を主張できると思ったら大間違いだ。」
ちょうど今の私と同じぐらいの年のはずだ。
まだまだ白木氏は世界に戦いを挑んでいたんだろうな。
私もよく氏には叱られた。
放送マンはジャーナリストだ、それを忘れるな。
時間があれば新聞に目を通せ。
生きた情報が何であるか、わかるようにならないとジャーナリストではない。
1980年、制作ディレクターとしてめきめき腕を上げはじめていた時、白木氏は私に言った。
「おまえは、自分勝手に仕事をしている。社内の評判も悪い。営業に行って根性を鍛え直せ。」
社内の評判が悪いというのにはちょっとこたえた。
安部邦雄全仕事でも少し分かっていただけるだろうが、その当時私は死ぬほど仕事をしていた。
ノイローゼになりかねないほどの仕事量だ。
そりゃ、残業も多いから目立っていただろう。
しかし、ほとんど睡眠もとれず、ひたすら神経をすり減らす毎日だった。
その私に、評判が悪いはないだろうと思った。
こんなに会社のために自分の生活を犠牲にしている男が、社内で評判が悪いなんて、そんなこと良く言うな。
私は、忙しいという言葉を言うのが嫌いだ。
また、たとえ忙しくとも、外の人が話しかけてくることを拒否しなかった。
仕事なんて、相手あっての仕事である。
忙しそうにして、人が寄って来なくなったら仕事に進歩等ありえなくなる。
これを社内の人間は、何もしないで遊んでいるようにとる。
外の人間にチヤホヤされて、エリート顔しているととる。
仕事しているふりしているのが正しいとほとんどの社員が思っている。
人間の悲しい性なのかもしれない。
営業への人事異動は懲罰人事だったのかもしれない。
ちょっと精神的には辛かった。
私は結局真っ当には理解されないタイプの人間なのだという諦めが心の大部分を占めた。
白木氏はその時も言った。
俺はお前のことを考えて今回の人事をした。それに応えるのがお前の仕事だ。
お前はゼネラリストにならないといけない。
その為のステップだと思って、ちゃんと仕事しないとだめだぞ。
ゼネラリストねえ。
そんなものになって、どんな未来が約束されているというのかねえ。
80年の秋、私は花形のディレクターから、一人の新米営業マンとなった。
葬儀に参列出来なかったことが今も心残りの、安部邦雄