FM大阪の元副社長、白木龍雄氏の3回忌がまもなくやってくる。
恩も受けたし害も受けた白木氏だったが、私にとってはとても大事な人であった。
さて、そういうわけで花形ディレクターだった私が営業外勤へと人事異動された。
営業でどれだけ苦労したかなどと言う話をここで書くつもりはない。
4年弱後、私はやはり白木氏の意向で再び制作へ戻ることになる。
営業でよくやった、お前の刑期は終了だ。
そんなニュアンスの内示を受けた。
「御苦労さんやったな。」
一言いわせてくれ。
私は営業成績は決して悪くなかった。
むしろ、新規開拓においては抜群の成績だったはず。
新記録だって何回も作ったではないか。
それなのに、「御苦労さん」で終わり!?
営業でどうして私の成績が良かったのか。
それは今は客観的によくわかる。
私はディレクターとして優秀だった。
当然ながら、番組制作に関してトップクラスの知識は、営業という異文化の中でも充分に光るものであった。
つまり、仕事内容が差別化されていたのだ。
普通の営業マンではとても企画出来ないプランを次々に作り、それを相手のニーズに合わせて提案していった。
誰かが作ったものをそのまま売るのではない。
自分の商品(FM大阪)を相手が受け入れられるように修正するのだ。
人付き合いは嫌いではない。
それに私は商人の息子である。
商売の駆け引きぐらいは知っている。
営業成績がいいのは当たり前である。
1984年、制作に戻った私は変に自信を持っていた。
ムショ帰りの俺だ。
怖いものはもう何もない。
白木氏にひたすら服従する先輩達とすでに私は違っていた。
営業の仕事を耐えられた私だ。
誰からも偉そうに言われる筋合いはない。
再び暴走するディレクターの私。
しかし、しばらくすると自分の限界も感じはじめる。
このままじゃ、こじんまりまとまっただけの社員になるのではないか。
第一、こんな環境で出世しても大して意味があるように思えない。
等と思っていると、又白木氏は私を呼んだ。
「お前は、もっと試練を受けないとだめだ。東京へ行け。」
1989年(平成元年)、私は再び白木氏の命令で、東京へと人事異動。
初めての東京暮しが始まることになる。
白木氏を悼むつもりで書きはじめたのだが、こんな書き方で大丈夫なのだろうか、安部邦雄