まもなく3回忌を迎える元FM大阪副社長白木龍雄氏。
その思い出の最終回。
1989年、大阪から東京へ人事異動された私。
ほとんどの大阪人にとっては苦痛でしかない東京暮し。
それでも、そこに可能性を賭けるものには別である。
私は、毎日東京と戦っていた。
その戦いが、白木氏からの使命だと思っていたのかもしれない。
それでも大阪本社と離れるということは、それだけ疎外感も強くなる。
大阪の細かい情報等ほとんど入って来ない。
勢い、白木氏からもこれといった指示もなく、私は孤独な東京での仕事を日々こなしていた。
白木氏は、FM大阪を差別化することに最後の情熱をかけておられた。
アメリカから本場DJの招請。
PCM音楽放送という衛星放送への傾斜。
これからの放送は空から落ちてくるのだと、力説されていた。
残念ながら、その発想は少しずつずれていた。
アメリカの本場のDJなんて、誰もありがたがらない時代になっていたのだ。
舶来信仰なんて、とっくになくなっていた。
中味が伴わなければ、例えアメリカのDJといえども相手にはされない。
(ハリウッド映画といえども、面白くなければ当たらない。
グラミー賞を獲得しても、日本ではCDがまるで売れないアーチストなんていくらでもいる。)
1993年、私は白木氏から呼び出された。
わざわざ、大阪に出張してこいというのである。
何だろうと思って応接室に入った私に、白木氏は言った。
「これからは衛星放送の時代だ。ミュージックバードに行ってくれ。とりあえずお前しかおらん。」
東京支社の上司からは、そんなもの断ってこいと言われたが、私はFM大阪に飽きていた。
ミュージックバードと言えば、FM東京そのものだ。
FM東京に出向するのもイイ経験かもしれない。
そして私は半蔵門のFMセンターの住人となった。
PCM衛星放送ミュージックバードの立ち上げに専念することになった。
それが白木氏の最後の命令になった。
しばらくして、白木氏は病に倒れ、もう二度と私に指示を送ってくることはなかった。
私は衛星放送が何とか立ち上がったのを確認して、次の年、ミュージックバードを辞し、古巣のFM大阪も退職した。
白木氏とはそれ以来話す機会もなく、2000年1月、白木氏は逝った。
その後、誰も私に白木氏を語らなくなった。
白木氏の業績をまとめる時には、是非何か書かせて欲しいと頼んでおいたが、そんなものは誰も作ろうとはしなかった。
私に常に試練を与えつづけた白木龍雄氏。
私がFM大阪を辞める時、白木氏から届け物があった。
中には高級な万年筆と、震える字でかかれたメモがあった。
「おまえには、外の人が是非うちに来てほしいと言われるような仕事をしろと常に教えていたはずだ。おまえはそれを実現した。心からおめでとうと言いたい。」
今はその万年筆もどこかへ行ってしまった。
白木龍雄氏は何も形に残さないまま、焼き場の煙となってしまった。
冥福をお祈りする。
白木氏のことを書けば半分が恨みになりそう、でも感謝していることは嘘ではない、安部邦雄