白木龍雄氏の思い出で書いたことだが、私はこの人からゼネラリストとして修行するように指示を受けた。
専門バカではだめだ、全体を見渡せるように精進しろ。
で、自分でも言うのも何だが、クリエイティブ能力の高い私という人材を、編成庶務に行かせたり、営業外勤やらせたりしたわけだ。
結果的には一番多く担当したのが、番組制作の現場だったわけで、そのおかげで今も放送業界のはしっこでメシを食べさせてもらっているのだが。
しかし、一つ泣き言をいわせてもらうなら、ずっと制作畑で仕事させてくれていたら、もっと画期的な番組作りをしただろうにと思って、残念でならない。
制作のスペシャリストとして私という人材を活用した方が、会社にとってどれだけプラスだったろうかと心底思うのだ。
やはり、途中で違う部署にいけば自ずと連続性が断たれ、その間専門性を純化していった他のライバルに随分差を開けられてしまう。
勉強と同じである。
同じように優秀なライバルがいて、片方はずっとその勉強ができ、私はそういう勉強をしようとすると邪魔されているわけだから、絶対ライバルに勝てっこない。
4年後、現場に戻って「さあ、もう一度勝負」なんて思ってみても、ライバルはその後ろ姿が見えないほど先の方へ行ってしまっている。
普通なら、諦めるだろう。
ようし、俺はもうスペシャリストをめざすのではなく、ゼネラリストを目指すんだ。
そんな気持ちで、自分を振るい立たすしかない。
でも、こんなスタンスじゃ、放送の現場を統括するのは難しい。
ゼネラリストの作る番組なんか面白いわけがない。
餅は餅屋なのだ。
ゼネラリストなんて、管理していればいいのだ。
現場の演出に口はさむなんてナンセンスだからやめるべきだ。
でも、意外と放送局の実態はそうではない。
ゼネラリストがナンセンスな番組作りをやっている。
たいていそういう放送局はじり貧になっていっている。
私が関係した局等、ほとんどその傾向にあると言っても過言ではない。
今や、中年の就職難がとりざたされている。
彼等のほとんどはゼネラリストだ。
だから、満足できる給与をはらってくれる会社なんかほとんどない。
今の会社のほとんどがほしがっている人材、それはスペシャリストなのだ。
一流会社の部長さんがほしいのではない、会社の政策を委ねることができる、経営のスペシャリストが欲しいのである。
だから、私が学ばされたゼネラリストへの道は誤った道だったと今は思う。
しかたがない、俺はゼネラリストのスペシャリストになるしかないな。
最近、そう思うようになっている。
でもね、スペシャリストというのは何かというと、結局仕事の内容が差別化されているということなんですね。
他の人ではできないことができるというわけですね。
ゼネラリストでも、中途半端な奴は結局個人が差別化されていないということで、結局、ゼネラリストでもスペシャリストでも、問題なのは個性の差別化なんですわ、いやまったく。
そう思うと、今の日本の会社って、ほとんどまるでダメ夫って感じかな。
これからのキーワードは、やはり個性の重視しかない。
そんな日本社会がこれから本当に実現するのだろうか。
何か、金太郎飴みたいな社会がこれからもベタベタ続くようで、気が滅入るんだけどなあ。
構造改革の後には、やはりスペシャリスト重視の社会ができるのだろうか?安部邦雄