スーパーボウルは、ニューイングランド・ペイトリオッツの劇的なフィールドゴールで終わりました。
大番狂わせ。
劇的な幕切れというか、さすがアメリカのスポーツは違うなと言う実感がいたしました。
本場のものはやっぱり凄いということでしょうか。
プロ野球もよっぽど企画考えないと、旧態依然のことやっていたら大リーグに負けまっせ。
さて、今回はアメフトの話をしようというのではありません。
ペイトリオット、すなわち愛国者について話そうと思います。
でも、普通はペイトリオットとはいいませんね。
パトリオットというのが表記としては一般的でしょう。
湾岸戦争で、スカッドミサイルと同じように有名だったのが、パトリオットミサイル。
ミサイル迎撃ミサイルと当時は理解されていました。
パトリオットというのは本来は間違いで、正しくはペイトリオットのようです。
アメフトで覚えた名前の方が一般的というわけですね。
で、今回は愛国者、愛国心について少し触れてみます。
よく、今の日本人には愛国心が足らないとか、国を守る気概が薄いなどといいますね。
確かに、戦前の日本人は充分愛国的であり、国を守る気概はあったと思います。
しかし、こんなの極めて相対的なものであり、前は今より多くて、今は前より少ないというだけのことです。
失ったわけではありません。
オリンピックで日の丸を頬にペインティングする若者の多いこと。
あれを愛国者と言わずして何と言いましょう。
質は違います。
昔の国を守る気概というのは、天皇の為に死ぬことができるという忠誠心とセットでした。
天皇を守ることが国を守るということでもあったのです。
家父長制としての天皇です。
今や家父長制度は過去の遺物となりつつあります。
それゆえ、天皇も象徴以上のものは何もありません。
今、若者に愛国心が足らないという論調をかかげる人は、たいてい「天皇への忠誠心」とセットされた愛国心を言っているようです。
だから、すぐ靖国の話が出てくるし、日の丸がどうたら君が代がどうたらという話になってしまいます。
私が重要だと思うのは、愛国心を「天皇への忠誠心」から解放することなのです。
文化としての天皇は大いに尊重すべきですし、その制度を守る気持ちは同時に自分達の伝統を愛することでもありますし、かけがえのない私達の国土、自然をあいすることにもつながると思います。
しかし、天皇への忠誠心はもういらない。教育勅語はもういらない。
天皇を中心にした国家意識はもういらない。
主権在民であり、国家の意志は民主主義の制度の下に決定されるべきものです。
小林よしのり氏がしきりに「公」意識の欠如を彼の著書で主張しています。
パブリック意識というのは確かに必要ですね。
役人はパブリックサーバントだ。公に殉ずる気持ちが必要だ。
それはその通りです。
その公意識は、我々も持つ必要がある。
公共意識と言っていいかもしれない。
一人はみんなの為に、みんなは一人の為に、そう言ってもいいかもしれない。
でも、公をあまりに語るのも危ういのです。
国民の権利を制限して、国家の意志の下に従属させる可能性も否定できません。
油断すれば、ファシズムは簡単に私達の家のドアを荒々しくノックします。
今その音が聞こえてきたりしませんか?
私が今守るべきもの、1に家族、2に会社、3に社員、4に友人、5に地域。
国家を守る気持ちはこれらの延長にあります。
日本人としての伝統や、道徳、天皇制、そんなものが最初にあるわけではありません。
あくまで守るのは自分の仲間が原点です。
国家はこれらの集合です。
それゆえにこそ、私達はひとりひとりペイトリオットとして生きる義務があるのです。
違いますか?皆さん。
日本人には今世界に敵はいない、それはとても幸せなことだと思う、安部邦雄