あなたは死体を見たことがあるだろうか。
私は葬式以外ではまだ見たことがない。
人は何故か死体を恐れる。
街に死体がほうり出されていたら、まず誰もが驚き、背筋がぞっとするのではないか。
アフガンの戦闘地帯とかいけば、死体なぞ幾らでも見れるだろう。
死体を見ても何も感じなくなったら人間おしまいだという人もいる。
戦闘員も、又アフガンの住民も、サラエボの住民も、パレスチナの住民も、そしたらおしまいになった人間ということになる。
誰も、人間の心を失う為に生きているわけではない。
精一杯人間らしく生きていたいと思っているはず。
人間らしく生きる為には、結局目の前の死体を無視するしかない。
自己矛盾なのである。
死体とともに人間は生きられないのだろう。
動物の世界では死体は自然が知らぬ間に処理してくれる。
そのためのシステムも充分に備わっている。
人間の死体も、ほっておけば自然が知らぬ間に処理してくれるはずである。
鳥葬やガンジス川の水葬などはこの類いだろう。
でも、人間は文明とともにそれを拒否するようになった。
死体と共存することはできなくなった。
死体とともにいるとその身が穢れる。
葬儀が終われば、清めの塩を身体にふりかけて、その穢れから逃れようとする。
随分失礼な話だが、だれもそれを言わない。
人間は死んだら穢れるのか?
それでも、近頃日本でもやたら人が殺される。
相手を死体にすることは何ともないのだろうか?
殺した側は、身が穢れないのだろうか?
相手の呪いを一生背負って生きて行くのだと嘆き悲しまないのだろうか?
人を殺すことは、自分の身を穢すことだ。
自然から自分が疎外されることだ。
一生、殺人者は自然から見放されて生きて行くしかない。
それでも、人は人を殺す。
カインとアベルの話を思い出す。
今もその罪が、原罪として人々の心の中に住み着いているのだろうか。
その原罪への絶望から、又人は人を殺さずにはいられないのだろうか。
私は、無造作におかれた死体をまだ見たことがない。
数千人の人が一瞬のうちにその命を奪われた、あのテロの場を見たこともない。
幸せというべきか。
その時代に生きたことを、悲しむべきか。
平和を語ることがどれだけ重いことなのか、それを人はもっと語るべきだろう。
平和はそんなに軽い言葉で実現できることではないのだから。
一体何を言い出すのだといわれるかもね、何となく冬季五輪の開会式を見ていてちょっと感じたまでです、安部邦雄