会社に入ってしばらくしてから私は実家を離れ、堺の泉北ニュータウンにひとり住んでいたことがある。
1970年の後半だったと思う。
駅前に「トリオト」というスーパーがあり、駅の反対側に泉北パンジョというショッピングセンターがあったので住むのには便利な場所だった。
ただその頃は、コンビニというのがまだほとんどない時代だ。
10時を過ぎれば、店等どこも開いていない。
私は放送局のディレクターとして、バリバリ活動していたため、帰宅はたいてい夜中。
何かを食べたいなと思っても、ろくなものがない時代だ。
いつも食べていたのは、駅前にあるハンバーガーの自動販売機。
150円ぐらいのあまりうまくもない食い物だったが、他に食べるものがないから仕方がない。
当時は酒の販売に時間の制限がなかったため、これも自動販売機でビールを買い、ベンチに座ってひとり夜食タイムを楽しんだ。
泉北ニュータウンには、若者ばかりが入居できる団地があった。(ヤングタウンと言ったかな?)
そこへ行けば、もう少しまともな食事が用意されていたはずだが、これも12時すぎてはどうしようもない。
この団地、色々と規則がうるさく、年令も制限があったため、段々住む若者がいなくなって行った。
そのうち、年令制限が大幅に緩和されたり、企業の社宅のように使えるような制度改正をしたと思うが、相変わらず、居住者は減って行ったと記憶している。
つまり、不便なんだろう。
コンビニのようなものがない限り、若者は夜中に飢えてしまうのだ。
あの頃、近くにコンビニがあったら、私はきっとそのまま泉北ニュータウンに住んでいただろうなあ。
私は結局7年ほどそこに住んで、又実家に戻ることになる。
当時のひとり暮らしというのは、今とくらべてはるかに大変だった。
電子レンジなんかないし、あってもその為のレトルト食品なんてほとんどない頃だ。
当時、どこかの食品会社がレトルトご飯というのを開発し、試食したことがあるが、まるでゴムを噛んでいるかのような歯ざわり。
やっぱり、即席はラーメンしかだめだなあと思った次第だ。
今ではこの類い、コンビニに行けば死ぬほど置いてある。
今は本当に便利だ。昔が不便すぎるのかもしれないが。
話がそれるが、私が一人住まいをしていた時、あったらいいなと思っていたのが、「留守番電話」。
電話はまだダイヤル式。黒い電話。
ジリリリーンとなる。
電話をとるとたいてい勧誘の電話。
家にいれば出るしかない。
留守番電話があれば相手が誰かわかるまで、ほっておけばいい。
「安部さん、この頃全然家にいませんねえ。」などと会って言われることもない。
誰かに電話しても、ずっと呼び出し音がなっているのを聞き続ける必要もない。
あの時、留守番電話があったなら・・・。
あの時、携帯電話があったなら・・・。
私はもっと色んな女の子と遊んでいたことだろう。
不公平だぜ、ベイビー。
何言ってんだろ、俺。あほちゃうか。
コンビニがあり、携帯電話があり、若さがあり、そこそこの金がある。
そんな若者をもう一度演じてみたい。
おれたちの時代は本当、色々ありすぎた。
ビートルズもいたし、全共闘運動もあったし、伸びゆく日本があった。
でも、コンビニほしかったなあ、携帯ほしかったなあ、女の子と毎晩一緒に遊びたかったなあ。
何か、ちょっと損したと思う私は、間違った存在なのでしょうかね。
最初書きたかったことが書いて行く内にどこかに消し飛んだ気がする、安部邦雄