国立大学の入試が始まるとともに、自分が受験した時の事を思い出す。
特異な入試だったから思い出すのだろうか。
それとも、誰でもが懐かしく思い出す種類のものだからなのか。
特異な入試?
そう、あの状況にいたものはみんな、その年の入試をそう総括するだろう。
まず、その年は東京大学と東京教育大学(現筑波大)の入学試験が中止になった。
大学が正常ではないから、入試を行える環境ではないと言うのだ。
その年の1月、東大安田講堂のバリケードが実力解除された。
東教大も筑波移転の問題もからみ、機動隊の導入でろう城学生の排除が行われたりした。
とばっちりは、こちらに来た。
私は東京大学など全く受ける気もなく、東京教育大もしかりである。
私の友人等、泣いて抗議をしていたが、東大自体に批判的だった私は、いくら子供の頃から憧れだとはいえ、泣くこともあるまいに、なんて冷ややかに見ていたものだった。
しかし、考えたらこれはやばいことだった。(考えないとわからんのかね?)
私は、地元の国立大学をずっと第一志望にしていた。
他の大学なんて行く気はまるでない。
もう、現役でその大学に入ることしか考えていない。
実力的には高望みなんて担任に言われたが、あんたは何もわかっていない、と先生を蔑んでいた私の姿が今もありありと。
世の中を斜に構えて見る癖は今も治っていない。
何でこんな嫌な性格になってしまったんだろうなあ。
私の大学入試合格戦略は又別の機会に書くつもりだが、18歳とはいえ、私の戦略は完璧なものだった。
模擬試験の合格可能性は30%程度だったが、こんなの単なる過渡期にすぎない。
3月の3、4、5の3日間に最高になるように自分を仕上げればいいのだ。(当時は入試は3日間、今はどうなのか全く知らない)
しかし、ちょっと誤算。
東大入試中止によって、本来東大を受けるはずの秀才が、どどっと京都大学に押し寄せ、ドミノ式に私の受けようとしていた大学に、今度は京大を目指していた秀才が又どとっと押し寄せる。
こんなこと聞いてないよー!
ついでに言うと、その年、受験する大学に人間学部という新しい学部ができるという計画があった。
その年の予算にも、200人の人間学部創設の要求が書かれていた。
人間学部は、元々文学部にあった、社会・教育・心理の専攻に、医学部から生理学をひっぱりこんで考えられた学部だ。
それまでの文学部の定員は80人。
それが一挙に280人まで増えることになる。
こいつはラッキーだなあ、と、ちょっと期待していたものだった。
ところが蓋をあけると、学部設置の要求は却下。
ええー!そんなー!
やっぱり、定員は80人だ。
しかも、東大、京大志望組が何故か、こちらに向かってドドー。
こりゃ、やばいなあ、いくら戦略は完璧でも、実力が伴うだろうか?、ちょっと間に合わんかもなあ?。
ね、特異でしょ?
そして、入試の日。
大雪。
大阪の降雪量なんて、毎年大したことはない。
ところが、この日だけ、10センチぐらい積もった。
交通マヒ状態。
確か、2時間ぐらい試験の実施が遅れたはずだ。
私の作戦は狂いに狂う。
合格可能性30%、願いの学部創設は見送り、東大からの逃避組の参戦、危うし、邦雄ちゃん!
そして桶狭間の決戦の日がやってきたのだった。
長くなるので、又明日。
戦略だ、作戦だと深刻にもならず、遊び感覚で受験に臨んだ自分を、一生かかってほめてあげたいと心から思う、安部邦雄