先日、高校の同窓会東京支部の会合があった。
学年の総数450人の内、何と30人が横浜のホテルに集まった。
私は出席したのは初めてだったが、どうも東京周辺に50人ぐらい同窓生がいるらしい。
へえー、と感心してしまった。
大阪人はあまり、大阪を離れたがらないと思っていたのに、50人も東京周辺にいるのか、という意外さだ。
私だって、好んで東京に来たわけではない。
会社の業務命令で転勤して来たわけであり、そのついでに定住してしまったにすぎない。
私が業務上東京にいる必然性がなくなった時、私はとっとと大阪に戻るつもりでいる。
東京への愛着はほとんどない。
問題は、東京にいる必然性がなくなる日なんて、本当に来るかどうか、である。
晩年は、できるならば産まれた土地、奈良で過ごしたい。
東京で、身寄りもなく朽ちて行くのはちょっとイヤである。
他の地方出身の人はどうなのだろうか?
関西出身者は、半分以上はおそらく関西に留まっているだろうと思う。
では、それ以外の地方の人は?
半分、そのまま残っているのだろうか。
名古屋も比較的定住率は高そうだが、東北とか四国とか、若い人のほとんどは地元を離れる選択をしているような気がする。
理由は1つだろう。
地元にいても、未来は開けないからだ。
沖縄に初めて行ったのが、1980年春の事だったと思う。
その頃は、今ほど沖縄旅行は盛んではなかったはずだ。
那覇空港はみすぼらしく、ホテルもビジネスに毛の生えたぐらいの規模しかなかった。
例外は万座の全日空ホテル。
オクマの日航ホテルはまだなかったはず。
私が泊まったのは、米軍宿舎に挟まれるように立っていたシェラトンホテル。
普天間基地のそばにあった。
今は、全く噂を聞かないが、このホテル、どこへ行ってしまったのだろう。
話がそれた。
その時に強く感じたのが沖縄の貧しさだ。
スピードのメンバーがまだ生まれていない頃の沖縄。
若い連中は沖縄にはおれないだろう、とつくづく思った。
今の沖縄は、その頃と比べれば天と地ほどの差がある。
それでも、若い連中は相変わらず、沖縄を離れ本土にやってくる。
都市は、東京や大阪に似せて作ることができても、未来への可能性までは作ることができなかったというべきか。
同窓会の感想も書いておかないといけない。
実は、私、高校時代の記憶がほとんどないのだ。
昨日まで書きつづけた受験の思い出には、他の学友はほとんど絡んで来ない。
一緒に勉強した記憶もなければ、あまり遊んだ記憶もない。
一体、あの時、私はどこにいたのだろう。
明日は、ちょっとこのあたりを書いてみることにしよう。
ということで、今日はこれといった教訓もなくおしまいです。
おかげで、久しぶりにあった学友に対しても、少しも懐かしさを感じなかった、あまのじゃくの安部邦雄