留守番電話を買ったのは、私が東京に来た時だった。
平成元年の頃で、ちょうど留守電が一般化しはじめた頃だ。
メッセージを自分で作って、録音して、それからセットして、最初の頃はとても面白かったものだ。
一人暮らしだから、昼間は滅多に家に誰もいない。
帰ってくると、電話がフラッシュしている。
ボタンを押すと、2です、3です、とか言ってくれる。
人によっては20ですとか、30ですとかということもあるらしい。
メールでも、20も30も来ていたら嫌になる。
よく、それだけのものをおとなしく聞いていたものだと感心する。
携帯電話が普及してから、私の留守番電話はほとんど意味のないものになりつつある。
前なら、よく家に電話をかけてメッセージのチェックをしたものだが、ここ1?2年そんなことをしたことがない。
急ぎの人は携帯にかけるだろう、もしメッセージがあっても家に帰ってからで充分だ、そう思っている。
留守電に入っているのは、近くの図書館からのリクエスト本が届いたと言う告知、わけのわからんアンケート、マンションがどうのこうの、そして親とか兄弟からの業務連絡。
留守番電話は平成の初めには、文明の利器の代表だったが、今や消え行く古ぼけたオールドファッション・ツールに成り下がっている。
ファックスもそのうち廃れるだろう。
どう考えてもインターネットに吸収されるしかない存在だ。
でも、この留守番電話、私が20代の頃にあったら、もっと私の青春は楽しかっただろうな、と思う。
何しろ、そのころは放送局のディレクターをやりながら、堺で一人暮らしだった。
電話はよくかかってきていたが、ほとんど家にいないため、女友達から何度も文句を言われた。
仕事なども、連絡がつかないとかいうこともあり、迷惑をかけたことも数知れず。
仕方がないので、用もないのに会社でスタンバイしていたり、かかってくるかどうかわからない電話を待ちながら家でぼーとしていたりしたものだ。
もっと時間を有効に使えただろうな、留守電があると。
それにインターネットにPC。
時間は2倍にも3倍にも使えたはずだ。
本当にこれは痛感する。
年とってから、時間の流れるのが早いというが、私にとって、ここ何年間はその前の何年間より、はるかにゆっくり流れている。
それは、私が時間を前より効果的に使えていることの証拠だろう。
経済的には充実してはいないが、人生的には極めて充実している今日この頃である。
ああ、本当にこの留守電とか、携帯電話とか、インターネットとか、BSやCSなどの多チャンネルTVとかあったら、どれだけ私の生活は充実していただろう。
ビデオもそうだし、コンビニなんかもそうだなあ。
今の人は、幸せですよ、幸せ過ぎます。
こんな可能性をまわりに一杯置いて、意味もなくだらだら生きているなんて、罰当たりもいいとこだ。
あ?あ、本当にうらやましいなあ?。
川沿いの桜の木が三分咲き、彼岸前に満開なんてちょっと記憶にない、安部邦雄