昨日の続きというか、最後にちょこっと書いた<幸せをお金で奪い合う>ことについての考察。
幸せを得るためには、必ずしもお金を必要としない。
しかし、ある特定の幸せを、誰かがお金の力で得ようとしたら、そこはお金による奪い合いの世界になると私は思うのだ。
幸せはお金で買えると断言する気はない。
しかし、誰かが金で買ってしまったものを、自分の誠意だけでとりかえせないのは自明の理だろう。
少し話を狭めて、音楽業界の話に限定してみよう。
著作権の問題が今色々と論議されている。
avexが売り出したコピーコントロールCDの大義名分に「PCによるコピーが、音楽文化を破壊する」というのがある。
音楽文化を作る為に、レコード会社はそれだけの投資をし、それだけの宣伝費をかけ、企業としての努力をしている。
ところが、PCユーザーは勝手にそれをコピーし、インターネットを通じて第三者にそれを再コピーさせている。
企業は、CDを売ることによって、投資した金を回収している。
勝手にコピーされれば、投資した金は戻らず、結局業界は衰退せざるをえない。
だから著作権を守るということは、すなわち音楽文化を守ることなのである。
you understand?
で、私がここで図書館の話を持ち出すわけだ。
図書館は、最初の一枚目のCDは買うだろう。
しかし、その後はユーザーが任意に借り出し、任意にコピーしてそれを返却する。
借りるのは、誰でも平等である。
ここには金は一円も必要でない。
レコード業界は、ここで異義を申し立てねばならない。
コピーは著作権違反である。
聞きたければ、金を出してCDを買え。
ここで又私の反論。
金がなければCDは買えない。
では、ない人はどうしろというのか?
貧乏人はあっちにいけというのか?
貧乏人を疎外しておいて、音楽文化をどうやって守る。
文化とは、金を持っている者だけの文化なのか?
昔、紙芝居というのがあった。
五円ほどのお菓子を買えば、その紙芝居を見ることができた。
でも、場所は天下の往来である。
囲った場所でもないから、子供達は遠くからでもそれを見ることができる。
たまには近くに寄ってくる貧乏な家の子供もいた。
紙芝居のオヤジは「お金のない子は、あっちへ行け!」と追い払っていた。
子供心にも、そういう言葉を聞くのは嫌だった。
いいじゃないか、ちょっとぐらい見せてやればいいのに。
でも、まだこの頃は、幸せをお金で奪い合う社会とまでは言えなかったと思う。
日本はその後、高度経済成長を達成した。
人は豊かになったが、その時には幸せをお金で奪い合う社会になっていた。
人の目標は、マイホームを建てることであったり、子供を受験教育の勝利者とするための努力だったりした。
すべてはお金がからんだ。
お金がなければ、どんな幸せも得られない、そんな気持ちに人々の心をさせていった。
著作権もそうではなかろうか?
お金がなければ、著作権を使う許諾も得られないのか?
ああ、そういうことだったら、かまいませんよ、どうぞ自由に使って下さい。
何故、著作権者はそう思えないのだろう?
CDにコピーガードをかける思想なんて、貧乏人を追い払う紙芝居のオヤジの思想と同じではないか。
私有を原則とした社会は、結局幸せをお金で奪い合う社会に他ならない。
何故、共有を原則とした社会を考えられないのだろう。
ふと、思った。
この思想は、ジョン・レノンの「イマジン」の中にもあったものではなかったかと。
私有から共有へのパラダイム・シフト。
確かに、もう少し考えてみる必要がありそうだ。
お金を持たないで町を歩く時、とても疎外された気分になるのは私だけだろうか?安部邦雄