人事権、ちょっと権力臭がして嫌な言葉である。
外務省が鈴木宗男代議士に全く抗えなかったのは、彼がこの人事権を掌握していたからだ、と言われている。
確かに、他人に自分の人事権を握られるのは嫌なものである。
「俺には御前の運命を変える力すらあるんだぞ。」
そう言われているようで、ちょっと気分が悪い。
といっても運命を変えることがすべて悪いわけではない。
いい方向へ変わることだってあるわけで、その場合はこの人事権者は神様みたいな人になる。
自分で自分の生き方を変えるのはなかなかできることではない。
神様がやってきて、自分の人生を変えてくれればどれだけ楽だろうか。
女の子が占いが好きなのは、誰かが、それも自分が信頼する(憧れる)誰かが自分の人生を変えてくれるのではないかという願望があるからだという。
シンデレラ症候群というのだろうか。
いつか王子様が白馬に乗って・・という夢想である。
その夢想に近いことが現実に起きないかといつも願っているらしい。
何故、女の子はそんな願望を持つのか?
エーリッヒ・フロムの「自由からの逃走(原題:自由の恐怖)」という名著がある。
自分の責任で自分の人生をどこまで決定できるかを考察した本だったと思う。
どんな人生を選ぶのも自由だ。しかし、それを選んだ責任は常にその自由と共にその人生の中にある。
その責任に人は段々耐えられなくなる。
それを選択したのはお前だ。その選択をした結果、生じた事実すべてがお前の責任となる。
他のものに責任を転嫁することは一切できない。
で、フロムは言う。
人々は、その責任を負うことを忌避する。
それゆえ、そんな選択の自由はいらないとさえ思いかねない。
ヒトラーのナチズムという全体主義にドイツ民族が傾倒していったのも、それゆえだという。
話を元へ戻そう。
外務省が鈴木宗男代議士に人事権を握られたからと言って、何故あのような理不尽な要求に屈して行ったのか。
色んな選択の自由が官僚にはあったはずだ。
だが、その自由は後に苦痛が伴った。
自分にとって、デメリットな事態さえ起きかねない。
ならば、それが例え屈辱的なものであっても、逆らうこともなく、言われた通りにしていよう。
それが例え、国民への背進行為であっっても、波風が立たない一番いい方法なら、それを受け止めればよいのだ。
私は、ただ職分を守って命令に従ったのだ。
責任を問われるのは、私ではない。
正義を選択する自由はあっても、その結果に対する責任をとるのは嫌だ。
何故なら、そんなことをすれば、今の自分や自分の家族がよって立つ基盤が揺らぎかねない。
そんな自由はくそくらえ。
自己保身に走る人もいる。
その自由を行使して、結局その立場から放逐された人もいる。
そんな自由はくそくらえ。
変な話だ。
人間なんて、偉そうに言っても、所詮これぐらいのちっぽけな存在なのである。
人事権などというものに翻弄されながら、強がりを言い続けるしか能のない、哀れな飼い犬なのである。
そんな時代もあったねと、いつか笑って暮らせるだろうか?
完璧には克服できていない私の課題でもある。
そんな人事権に翻弄されたこともある、たよりない私の命題でもある。
ディレクターから営業部に人事異動させられた時は、やはり動揺は隠せなかった私だった、私の運命が他人に弄ばれる理不尽さに胸が震えたことを今思い出している、安部邦雄