大平光代さんの「だから、あなたも生きぬいて」を読んだ。
元極道の妻、入れ墨を背中に入れた弁護士さんとして最近有名になった人である。
極道の世界に踏み込んだきっかけは、中学校でのいじめ体験だった。
この本を読む限りでは、実に陰湿ないじめの世界である。
大平さんはついに耐えられなくなって、果物ナイフで割腹自殺をはかった。
それは、昭和55年の各新聞に大々的に報道されたことらしい。
「女子中学生割腹自殺はかる、いたずら電話犯人扱いされ」と大きな見出しが踊っている。
犯人扱いされたのも、いじめの1つであったことがわかる。
彼女は、信頼していた親友にも裏切られ、親からも保護されず、もう死ぬしかないと思いつめたらしい。
しかし、この自殺未遂は彼女をさらに追い込んで行った。
誰からも、距離を置かれるようになり、結局アウトローの世界しか自分を受けれ入れてくれるところはないと思うようになるのである。
そして、極道の妻へと転落して行く。
その彼女を救ったのは、元不良だったある1人のオジサンだった。
ま、このあたりに興味のある人は、この本を手に入れてお読み下さい。
今日、私が書きたいのは、本の内容のことではない。
何故に、こんなイジメが行われるのかということだ。
学校に来ても、みんなで寄ってたかって無視する。
シカトなんて言葉もある。
汚いもののように扱い、陰でひそひそと聞こえるように悪口を言い、カバンを隠したり、持ち物をゴミ箱に放り込んだり。
私には、幸いなことにイジメの体験は全くない。
クラスには、よくからかわれたり、たまに皆のサンドバッグのように扱われたりしている生徒もいたように思うが、それでも仲間はずれになんかしない。
どんな子に対しても、寂しそうにしていたら声ぐらいはかけるし、弱いものを強いものが守るのは当たり前だと思っていた。
中学校の時、確かに番長もしたし、カツアゲの真似事をしていた奴もいる。
金貸せとか言って、因縁ふっかけてくる先輩もいたが、こちらが強気でいる間は、別になにごともなかった。
弱味を見せるから、彼等はつけ込んでくる。
私はいつもそう思って、自分も思いきり突っ張っていたような気がする。
しかし・・・、今のイジメは私の想像を越えているような気がする。
何故、自殺するところまで、仲間を追い込まないといけないのか。
何が気に入らないのだ。
抹殺するほど何を憎んでいるのだ、今の子供達は。
毎日が何かの祭りなのだろうか。
祭りには、いつも生け贄が必要だ。
祭りがなければ、皆不安で仕方がない。
だから、祭りをし続ける。
生け贄はいつも弱いものが選ばれ、そして追い詰められ、多数派の犠牲になる。
ある女子生徒の証言を聞いたことがある。
誰かをいじめていないと、いつそのイジメがこちらにまわってくるかわからない。
自分が虐められない為に、誰かを虐めるのだと。
生け贄にはだれもなりたくない。
しかし、祭りには生け贄は必要なのだ。
自分が生け贄にならないとは限らない。
それが、とても不安だと言う。
祭りとは狂うことでもある。
狂気の内に神と合一するのが祭りの原初的形態である。
狂気の中に蠢くものたちに、理性は通じない。
教師達は、しばしばそれを忘れているのではないだろうか。
表から見ているだけでは、カルト化した彼等のフェスタは見えないだろう。
今の時代は、若者の集団は簡単にカルト化する。
ある宗教で行われた無意味な殺人も、学校で行われているイジメと同じ構造である。
若者は祭りを求め、そしてカルト化していく。
生け贄を求め、自分が生け贄にならないよう、不安で不安でしかたがない。
そんな気持ちは、私の時代にはなかった。
祭りは、カルト化することもなく、普通に私達の暮らしの中にあった。
鎮守の神様の夏祭り、秋祭り。
彼岸の日の天王寺参り。
お盆の墓参り、正月の初詣。
学校に何故祭りが不可欠なのか、今の私には到底わからない子供達の心理である。
キーワードはカルト、私は強くそう思う。
結局、子供達の中の不安心理を大人が解決してやれないのだ。
何故なら、大人達も日々不安なのである。
人の不安を解決する方法等、誰も習ってはいない、親から教えられてもいない。
家庭に癒しはなく、学校にも安らぐ場はない。
そこで行われているのは、漠然とした社会への不安、人生への不安を御神体とした、カルトの祭りなのである。
イジメはカルトの教義なのだ。
そんな宗教のことなど、私が知らないのは当然なのかもしれぬ。
イジメの現場を知らない奴がわかったことを言うなと言われれば、グウの音も出ない私だが、しかしカルトだけはやめろ!と強く主張したい、安部邦雄