「学んで思わざれば則ち罔し、思うて学ばざれば則ち殆うし(學而不思則罔、思而不學則殆)」
論語の学而編にある名言である。
しかし、孔子というのは偉いなあと、この年になってつくづく思う。
自分の頭で考え、自分の経験を積み重ねるだけで次々に産み出した珠玉の言葉。
不惑の年を遠の昔に過ぎてしまった私としては、ただただ己の至らざるを恥じるばかりだ。
ま、そんなことぼやいていても始まらんけど。
さて、その珠玉の言葉の数々の中から、今日は「學而不思則罔、思而不學則殆」をとりあげることにする。
学校とか本等で学んだ知識を、自分の頭の中で再構成しない限り、結局は身に付かない。
自分の頭の中でいくら物事を考えたとて、それを学問などで日々研鑽しなければ、そんな考えはかえって危険である。
ま、意味はこんなところだろう。
特に私が近頃常に自分を恥じているのは後の方である。
毎日毎日、私はこの欄で自分の意見を書いている。
それは確かに、個人の考えとしてはいい線行っている面もあろう。
しかし、それらの意見を支えるだけの理論的根拠を、その後どれだけ私が構築しえているかが問題なのだ。
根拠のない思いつきは、かえって私にとっては危うい結果をもたらしかねないと危惧するのだ。
私は学ぶのはとても好きだ。
学んだものを現実にあてはめ、その中から自分独自の意見を醸成するのも誰よりも得意だと自負している。
しかし、この醸成された意見を、再び学問にフィードバックするのは、あまり得意ではない。
ひらめきで作られた理論には、ある意味、理論的根拠の根が浅いという欠点がある。
自ずと、私の理解は浅いままで、それ以上の掘り下げがイマイチなのだ。
これは、こういう場で意見を開陳するものにとって、好ましいことではない。
ただ、自分の思ったことを書けばいいというものではないのだ。
日々、三省すべきことの1つである。
ところで、先日明治神宮にお参りした時に「おみくじ」をひいてきた。
ここの「おみくじ」は、占いのようなものではないのに少し驚いた。
昭憲皇太后の歌が書いてあるだけなのだ。
日に三度身をかへりみしいにしへの
人のこころにならひてしがな
これを家に持って帰って、神棚に上げておけとか。
歌はよくできているのだが、ちょっと押し付けがましいなと思った次第。
ところで、いきなり客が来た。
今日は、中途半端だけど、これでアップさせてね。
Hさん、後ろでゴチャゴチャ言うのやめてくれないかなあ、安部邦雄