いつもの南北バス「すぎ丸」に乗っていたら、隣の2人の女性連れがこんな会話をしていた。
「あのお嬢さん、あまり話されないわねえ。」
「そうねえ、女の子はもうちょっとお喋りでないと、苦労するんじゃないかしら。男の子なら多少無口でもいいけどねえ。」
なるほどなあと思いながら聞いていたが、確かに女性の無口はあまりメリットはないかもしれない。
女性というのは、子供を作り、幼い頃から生きて行くための術を伝授するというのが任務のようだ。
とにかく、口うるさく細々と生きるためのテクニックを教える。
覚える迄は、何度でも繰り返す。
それが、古くさかろうと、もう通用しないやり方であろうと、自分が教えなければと思ったことは相手がそれを会得するまで止めない。
また、基本的にそのやり方に批判は許さない。
かくて、女性はその社会の文化、規範を守り、それを後世に伝えて行くのである。
だから、意味があろうとなかろうと、喋る(或いは叱る)ことに自分の人生をかけていると言っていい。
女性が喋らなければ、集団の文化の基盤は伝わっていかない。
だから、強い集団になるためには、女性がお喋りでないといけない。
女性の強さとは、飽くなき喋りの連鎖にある。
本当かどうかわからないが、50年あまり生きた私の女性観の一つである。
だが、少し困ったことがある。
最近の女性、子供が自立した後も、なかなか死んでくれなくなった。
昔は、子育てが終わり、子供が結婚して孫ができた頃に往生するのが普通だったのに、今や孫どころかひ孫ができるのが普通になってきた。
そうすると、嫁姑問題も、いつまでも解決しないまま続くし、すでに自立している子供にまで、昔の規範を押しつけ、飽くなき喋りを続けたりする。
こうなると、かえって母の言葉は害毒である。
神は、多分そこまで女性を作ってはいなかった。
にもかかわらず、人間は自分達の叡智で、医学を進歩させ、子供が自立した後も、いつまでも女性を生かすようになってしまった。
ここから文化の継承は混乱し、本来文化を新しく想像する男の機能は著しく阻害されるようになる。
今や、年老いた女性のお喋りは有害である。
文化は滞り、人類の進歩も行き詰まる。
そういえば、最近の男の中にも、やたらお喋りな奴が増えてきている。
男は黙ってサッポロビール、なんて時代はもう来ないのだろうか。
などということをひとりバスの中で考えていたのだが、いかがなものだろうか。
寡黙な男はかっこいい、なんて時代は終わったのかもしれない、お笑いブームで、バラエティ全盛ということは、それだけお喋りの男が増えたと言うことか、私もどちらかというとお喋りかも、カッコ悪い気もするが、安部邦雄