第一期ディレクター時代 (1976〜1980)
ハウジング・レポート
〜JOBUポップサロン「あなた」(1979〜198?)セグメント〜
JOBUポップサロン「あなた」には3つのセグメントがあった。
「ジョイフル・クッキング」「おしゃれのメヌエット」「ハウジング・レポート」の3つだ。
セグメントを3つ作ることが決まってから、なら衣食住をそれぞれ番組にしようという発想だったと思う。
私の感想はただ一つ。「あほちゃうか。」(先述の通り、私はこの改編自体に批判的だったわけですね。)
で、そのセグメントのうち、「じゃ、安部君はこのハウジングをやってくれ。」という業務命令が来た。
ハウジングなんて何の知識もないので、私には不向きだと主張したが、全然聞いてもらえなかった。
今でも、家づくりには何の興味もない。不動産しかり、ハウジング・ローンしかり。
仕事だから仕方なくやった。しかし、上司(この場合、大島次長)は絶対に部下のハンドリングを間違っている。
セグメントというのは何?という疑問にお答えしておこう。
番組のコーナーといってもいいかもしれない。ワイド番組の本筋とは関係なく挟まれるコーナーで、通常、ある特定のスポンサーがついている。本筋では、スポンサーはスポットと言う形でしか参加できない為、スポンサー色のあるコーナーにして、より参加しやすくしようというのがセグメントである。
あんまり長いと、ワイド番組の本筋に影響するので、大抵5分間程度におさまっている。
営業的要請から来た番組で、レギュラー的に売上げが立つ為、経営的には貢献大と言えよう。(その分、編成的には悩みの種だが。)
ところで、番組を作れと言われてから、今度は営業が口だして来た。スポンサーは津村順天堂だという。住まいをどう設計するかという番組なので、バスクリンのツムラさんには相応しいと言うことだったのだろうか。
ところが、ツムラさんの営業は東京支社が窓口だったはずなのに、今度は大阪本社の営業から要望が来た。
番組に某建築家を使えと言う。
どうして?と聞くと、某住宅メーカーのお抱え建築家だから、その後の出稿も得られやすいというのだ。
そんなものかな、と半信半疑で、その高名な建築家にプロデューサーと会いに行った。芦屋のお洒落な事務所である。
その建築家さんはとてもいい人だった。その人の作品はノーカンな私にはピンと来るものがなかったが、人柄も知識も立派な人だった。
ただ、立派すぎて番組を作るのはとても大変だった。
毎日5分間、建築家の高尚なお話で番組は進行する。そりゃ、私も放送のプロだから、分けわからない番組にはしない。
誰が聞いても一応は理解できるものにしてある。
しかし、それまでの作業は大変である。先生は毎週芦屋から、大阪中之島まで5本分の講義内容をまとめてやってこられる。
私は、それからその内容を聞き、一般の人が理解できるように改め、そして5本分の収録をする。
この作業は正直いって大変である。
先生の話の内容は私には相当面白かった。住宅の歴史一つとっても、人間の家の変化は水を家の中に取り込むプロセスそのものである、なんて言うのは目からウロコが落ちる思いだった。
だけど、難しすぎる。家庭の主婦はボーとラジオを聞き流しているだけで、決してラジオ講座を聞いているわけではない。
しかし、考えたら高名な建築家にそんな下世話な話などできるわけがない。何しろ、先生は真面目な建築家なのだ。エンタティナーではないのだ。
ワンクール(3ヶ月)の後、先生は私に言った。「私がこの3ヶ月書いて来たものは、そのまま本にできる。」
ごもっともです。
「今後もただ私がしゃべるだけで、それが何の形にも残らないのなら、これ以上続けるのは無駄ではないだろうか。」
ごもっともです。
元々、企画に無理があったとしかいいようがない。先生にこの番組の進行をお頼みするのが間違いなのだ。
セグメントの反応もリスナーからはほとんどなく、話題にもならない番組を本にしようとしても応じてくれる出版社などあるはずがない。
「わかりました。この番組はもうやめましょう。先生、短い間ですが、お疲れ様でした。」
意を決してそう言った私に、先生はにこっと笑いかけ、鰻重とビールのささやかなお疲れさん会を楽しんでいただいた。
ところが、これからが大変。
1クールで出演者が変わるなんて認められないと東京支社から大クレーム。そのまま続けろ、と矢の催促。
しかし、私は動じなかった。出演者がもうイヤだと言っている。イヤと言っている人を説得する為の材料なんて私にはない。ギャラを10倍にするとかというのなら、可能性はあるけどね。
ま、これは企画を作った側が悪いというのが本当だろう。営業からすると、この企画がそんなに簡単に終わるとは思わなかっただろう。スポンサーが1クールで番組を下りるというのは日常茶飯事だが、出演者が1クールで下りるというのは一大事である。
別に喧嘩したわけでもないし、お互い気持ちよく別れたわけであるから、私は別に痛痒を感じなかったが、思えば少し私も勝手だったかなという気もしないではない。
それにしても大阪の営業も営業である。
結局、某住宅メーカーからは何の出稿も得られず、何のための建築家の抜擢だったのかとあきれるばかりであった。バカやろう。
尚、先生降板後、番組は宮城静子さんのナレーションに変わり、その原稿は毎回私が書くことになった。私がそれまで全然興味のなかったハウジング話の原稿を毎回書いていたのである。
先生の高尚な住まいの話を聞いた私には、そこらへんの構成作家のつまらない原稿など願い下げだったのだ。
それなら、自分で書く。少なくとも今なら先生から個人的に受けた知識(私は奥田さん同様、先生とも積極的につきあい、多くのものを学ばせていただいた。)が使えるはずだ、というのがその時の私の判断だった。
こんなディレクターは、関西にはそうはいない。あなたこそ、本物のディレクターだと、宮城さんにほめてもらった。それが今もとても嬉しい体験の一つになっている。
宮城さんには他にもとても面白い話があるのだが、ここで書くと怒られそうなので、許可をもらってから書くことにする。でも、今はどこにおられるのだろう。宮城さーん、元気ですかー!