昨日の話と矛盾するかもしれないが、本心なんてあまり明らかにしないほうがいい。
確かに私はあの時そういいましたが、本当はあんなこと言いたくはなかったのです。
言い訳がましくそういう人も多い。
本心ではないが、立場上言わざるをえなかった。
そのあたり理解して欲しいというニュアンスがこめられている。
しかし、そう言われても、言われたほうの立場にたてば、何でそこまで理解しないといけないのかと思うだろう。
それが、別に人の心を傷つけるようなものでなければ理解もしようが、ほとんどの場合、心のどこかに言葉の刃が刺さっているものだ。
そりゃ、そうだろう。
ああ言ったが本心ではないという言い訳はこう言っているのと同じだ。
あの言葉、不用意になげつけましたが、どこか刺さっていませんか?
かすっていませんか、痛くなかったですか?
でも、それは偶然なんで、私のせいじゃありませんからね。
な、わけないだろう、おまえが投げた言葉だろう、おまえのせいじゃなくて誰のせいなんだ。
寅さんの言葉に、「それを言っちゃあ、おしめえよ」というのがある。
確かにそれも事実かもしれないが、そう言えば皆立つ瀬がないじゃないか。
いいんだ、どうせいつかは皆死んじゃうんだから。
それを言っちゃあ、何もできなくなるという言葉の典型だ。
親に向かって、「産んでくれと誰も頼んでいない」というのもそう。
それなら、親だって、その親に産んでくれと頼んでもいないし、またその親だって。
すでに生まれてしまった結果の責任を、自分以外のものに求めるのには限度がある。
仏教でいう、因果応報である。
言っておくが、自業自得とはカテゴリー的には別だから誤解しないように。
ま、不用意に本心を打ち明けるみたいなことは、適当にしておいたほうがいいと思う。
本心という言霊が災いになることも数限りなく私にもあった。
本心ではない言霊の方が、まだ災いが軽いように最近は思えるようになっている。
できれば、言葉なんか使わないほうが、自由な心でいられるのだ。
自家撞着の何者でもないが。
言霊が災いする元凶は、人の記憶のメカニズムにあるのではないか、カタルシスにつながる言葉の束とか、不快感につながる言葉の束が記憶の連鎖の中でぶつかり合っている、ちょっとそう思ったりしている、安部邦雄