大阪の郊外にある、とある町を訪れた。
適度に都会、適度に田舎という趣の街並を歩いて行くと、見たことのある用水路に出た。
ここは、前に来たことがある、確かええと・・・。
そう、あれは今から40年あまり前だ。
小学校の担任の先生のところへ、クラスの仲間と遊びに来たのだった。
それが、この町だ、私はまだ10歳ぐらいだったか。
当時、このあたりは殆ど水田と畑。
その間に大きなお屋敷が黒塀に囲まれて、いくつか立ち並んでいた。
先生の家は、その中の一つだった。
横の潜り戸から中に入る、まるで大名屋敷のような家だった。
多分、先生の家は土地の名士だったのだろう。
そんな人が何故に小学校の先生になったのだろうか。
思いを巡らしながら、用水路ぞいの道を歩いた。
どこにでもあるような家が隙間なく建ち、昔の記憶とまるで重ならない事に軽い苛立ちを覚えながら、ある道を左に曲がった。
そして、私は道の右側にそれを発見した。
大きな家構え、古ぼけて名前の字も読みにくくなった表札。
ああ、そうだ、あの先生の名字だ。
昔は、そこに先生の名前があった。
今は、代替わりしたのだろうか、その先生の名前ではない表札が2つ並んでいた。
犬も歩けば棒にあたるとでも言えばよいのだろうか、偶然以外の何ものでもない40年ぶりの屋敷との出会いだった。
そうだ、この屋敷を出たところは、ずっと水田だった。
今も、ところどころにその名残りはあるが、目立つのは何の威厳もなく建つ、新興住宅ばかりである。
そういえば、あそこに牛がいて、その向こうに川の土手があった。
空にはヒバリが鳴き、そこは誰が見ても、郊外の田園風景だった。
記憶が空回りしている。
時間の流れの中で、お屋敷はずっとここにあり、周りは走馬灯のように変化して行ったのだろう。
わずか40年、都市郊外は、あまりにも変わり過ぎたのではないだろうか。
ここにはアイデンティティが何もない。
そうか、日本の戦後の歴史は、人々からアイデンティティを奪い去る時間の束だったのかもしれない。
お屋敷をしばらく見つめ、そして私はその場を去った。
わが師は既に、この世を去ったに違いない。
昔は、そうやって担任の先生の家を訪れるのが普通だったことを思い出す。
先生はいつも、バラ寿司(ちらし寿司のこと)を生徒達にふるまってくれた。
決して私はいい子ではなかったが、そういった心のふれあいはとても好きだった。
時代は変わって行く、すべてのものが、あらゆることが。
今日は、昔の思い出の切れ端に少し触れることができた。
記念のために、書きとめておくことにする。
しかし、先生のお屋敷を見つけたのは本当の偶然だった、吸い寄せられるように路地に迷いこんだというか、安部邦雄