私の趣味のひとつに古代史がある。
古墳めぐりが好きなのも古代史への興味ゆえである。
今から1700年ぐらい前に大和で発生し、全国へ広がった前方後円墳。
その形に一体どんな意味があったのか。
人々は何を考えて、こんな不思議な形の墓を作ったのか。
意味がなければ、こんなバカでかい墓は作らないだろう。
権威の象徴なのかもしれないが、作らせた権力者達はこの形にどんな意味を見い出していたのだろう。
ところで、最近話題の皇室をめぐるゴタゴタ。
万世一系の虚構の上に成り立つ皇室の権威が、結局人でしかない皇族を不幸にする図式なのかもしれない。
皇室は、2000年以上の歴史を持ち、全国に膨大な墓所を持ち、それらを維持、管理する義務がある。
その墓が本物かどうかは、今さらどうでもいい。
本当に万世一系であるかを問いなおすことはありえない。
すべてが虚構であり、皇族であることに今さら何の意味があるのかという問いかけもタブーである。
国民の統合の象徴といっても、その実体は何だかわからない。
何の権力もなければ、国民が権利として持っている自由すら皇族には保証されていない。
外の世界とは隔絶され、することは皇室を継続させるための後継者づくり。
人格の否定?
一体、人格なんて皇族にとれだけ認められているのだろう。
やりたいこともできない、外を出歩く自由もない、それでいて権力は持たされない。
これで、人生にどんな夢を持てというのだろう。
制度的には、夢とか希望とか、そんな世俗的なものは用意されていない。
なぜなら、天皇は神であり、皇族もまたその係累であるからだ。
神は全人格であり、それだけで尊い存在である。
その中味は問われないし、その内部での葛藤もありえないことになっている。
美智子妃の苦悩も一時期話題になった。
あの時も、皇后は身体を悪くされたはずだ。
誰も、皇室の不幸を語らないし、語ってはいけない。
皇室は皇室であることが尊い。
人間ではないのだから、世俗的な不平不満は存在しないという擬制。
もはや、天皇が統帥権を持つことはないだろう。
では、一体天皇は、いかにして充実した生活を持つことができるのだろうか。
欲望は持ってはいけない、というのと同じなのだ。
誰が葬られているのか、本当にはわからない巨大な前方後円墳。
それが、皇族の先祖だという虚構のために、永劫に誰の墓かがわからないというパラドックス。
誰が、次期天皇を継いでも、ほとんどの国民はどうでもいいことだろう。
何しろ、皇族には何の権力もないのだから、うらやましくもないし、なりたいとも思わない。
政治的に利用されても、何の反論もできない皇室。
選挙権もなければ、被選挙権もない。
労働で対価を得ることもできなければ、職業選択の自由もない。
いいのだろうか、このままで。
畏れ多いことだけど。
東京にいると皇室はそんなに遠い存在ではない、半蔵門にいた時は、しょっちゅう皇族の方が車で出入りされていた、広い敷地、抜群の立地、だがそんなもの何になるのだろうと平民の私はいつも同情気味にみていたものだった、安部邦雄