前にジャーナリストの項で白木龍雄氏のことを書いたと思うが、その白木氏が言ったことを思い出した。
ジャーナリストは取材相手に対して批判したり議論をふっかけたりするのは控えた方がいい。
何かいいたければ、これは感想だがと前置きして言いたいことを言え。
批判はするな、だが感想は言ってもいい。
ジャーナリストは哲学者でもなければ為政者でもない。
権威者でもなければ、研究者でもない。
しかし、知識はあるし、世の道理は心得ている。
取材者が間違っていると思うこともあるだろう。
何て勝手な奴だと罵倒したくもなるかもしれないが、それをあからさまに指摘してはならない。
自分に自信を持つことは悪いことではないが、もし自分の方が間違っていたら、ジャーナリストはそれで信用を失ってしまうのだ。
だから、これは感想だがと言って、自分の思うことを言うようにしろ。
感想は、間違っていても何ら問題はない。
相手に間違いを指摘されても、「ああ、そうですか、なるほどねえ」と言って感心していればよいのだ。
ま、これも一つの処世術ということかもしれないが。
大学時代、新聞部の先輩が言っていたことも思い出した。
当時は、全共闘華やかりし頃。
大学新聞は、その主張の面で色んなセクトから批判の対象になった。
糾弾に押し掛けられるなんてことも多かった。
その時、その先輩は言った。
いいか、相手が新聞の記事に文句言ってきたら、こう言い返せ。
この記事のどこが間違っているんだ!?
批判するなら、どこが間違っているのかを指摘しろというわけだが、実はこう言われると、答えるのは難しい。
自分の考えは正しい、お前らが書いていることは間違っているというのが批判する側のスタンスなのだが、いざ相手側のどこが間違っているのかを指摘するのは至難である。
地球は四角いとか書いてあるのなら、まあまあ指摘はできる。
しかし、「イラクへの自衛隊派遣は国益の為に必要だ」と書いてあるだけなら、間違いの指摘はきわめて難しい。
そういう考え方は許せないというのは、間違いの指摘ではない。
議論をふっかけて、相手の論理を破綻させようと思っても、相手は議論に乗って来ない。
相手は、どこが間違っているんだ、と聞いてきているだけだからだ。
それ自体、事実として間違っていなければ訂正する必要がないのだ。
その考え方は正しいか間違っているかなんて、そう簡単には結論が出ない。
新聞の記事が間違っているから訂正しろと言っても、実態として間違っていないものを訂正する義務はないと反論されるのが落ちだ。
つまり、これは言論の自由の問題なのである。
どこが間違っているのか指摘できないのなら、その言論は尊重されるべき、すなわち訂正など不要ということになる。
後は、暴力で解決したければ勝手にどうぞ、ということだろう。
そんなわけで、私が所属していた大学新聞は、某セクトによって暴力的に乗っ取られることになるのだが、ま、それは今日の論点とは関係ない。
とにかく、ジャーナリストは青筋立てて、人と議論なんかしないようにという先輩の教えである。
残念ながら、私はあまりいい弟子ではなかったようで、その後、恥ばかりかく目に何度となくあってしまった。
良薬は口に苦し、ということですね。
白木さんは、社内的にはあまり評判の良い人ではなかったが、私には色々ためになる話をしてくれた、虎は死んで皮を残すように、私も何か残さないといけないなあ、安部邦雄