大阪で番組を制作し、人事異動で東京に来た時に思ったことは、東京のお金の単位は大阪とひとケタ違うということだった。
大阪時代の番組制作費は100万でも相当ぜいたくな額だった。
ところが東京ではその程度では誰も相手にしないという雰囲気すらあった。
当時はバブル絶頂期ということもあり、制作費1000万でも別にどうってことないという顔をみんなしていた。
10万円単位の仕事をちまちまやるのは、二流の制作マンのやることだといわれかねない状況だった。
私が、東京に異動してから、何故ミュージカルをやることになったかというと、結局こういったちまちました仕事をこなしているだけでは東京に出て来た意味がないと思ったからだ。
大阪では大阪(関西)を相手にするだけでいい。
全国のことなど考える必要もないから、制作費もそんなにはいらない。
しかし、東京では否が応でも全国のことを考えてしまう。
相手にする人口が増えれば増えるほど費用も嵩む。
また、そういう費用をハンドリングできることがステイタスでもあるのだと、私はその時そう思い込んでもいた。
で、私は億単位の予算のかかるミュージカル制作を思い立ったのである。
億の金を使えるプロデューサーという箔をつければ、やっと東京でも認知されるのではないかと考えたのだ。
これは、同僚の営業マンが私にいつも言っていたことに触発された面もある。
いいですか、東京の一流の広告代理店は億単位の仕事でないとマトモに動かないと思った方がいいですよ。
ちまちまと1000万単位の仕事なんかしたくないんです。
億単位、それも10億単位ぐらいないと、やる気にならない。
だから、仕事をするにはそのスケールが是非とも必要になるわけです。
そんなものかと思った私だが、実際に億単位のプランを考えると確かに何らかのアクションは帰って来た。
へー、FM局でも、これぐらいのことはできるんですねえ、という好意的な反応が多かった。
そうこうしながら提出したミュージカルのプランを、某生命保険会社にある代理店が持込んでくれ、めでたくスポンサードされることになったのである。
ミュージカルを実施する為に払われた額は1億そこそこだったが、全体としては数億円が支出されたイベントだった。
やはり東京の資金力はすごいなあと感心も得心もしたものである。
これが1000万単位の話だったら、こんな話に誰も乗らなかったのではと今でも思う。
人は億という数字に動いたのである。
もちろん、プランがよくできていたとしても、それが億という数字を孕んでいなければ、あんなに人は動かなかっただろうと思う次第だ。
あれから、10年余りたつ。
最近、こんな話があった。
ある事業を始めたいので、資金を出してもらえないかとあるところに相談に行った知人がいる。
相手は、その話を聞いてから、なかなか面白い話ですね、いくらぐらい費用がかかるんですか?と聞いて来たらしい。
彼は、数千万という話を持ち出したら、相手はあきれたように言ったという。
その数字だと、せっかくですけど私どもの会社の会議にはかけられませんね。
うちは、億単位でないと出資の話には応じられないので、申し訳ないですが・・・。
彼は、そんなものかと肩を落としたと言う。
プランは評価されでも、残念ながら、このプランを実施するにあたって億単位が必要と言えるものを私は何も持っていない。
億の金をハンドリングする力は、普段からその金を使っているものにしか身につかない。
でっちあげで億単位にすることはできるが、その根拠を問われるとたちどころに行き詰まってしまうのが普通である。
億の金をハンドリングできる、それは充分その人のステイタスなのである。
どうやっても、自分の仕事を億単位にできないとするならば、その人はそれだけの仕事しかやっていないと自覚すべきだろう。
結局、自分の仕事を世の人に知らしめたいと思うなら、そのプロジェクトは最低でも億がついた予算を必要とするというものでなければならない。
でなければ、結局人は誰もあなたのプロジェクトに興味なんか持たないのだ。
一部の小さな金をハンドリングできる人には訴求できても、大きな金をハンドリングする人からは見向きもされないと知るべきだろう。
これは善悪とか公正とかという問題とは全く関係ない。
金は人を動かす為のパワーなのである。
金のないところに、人の貴重なエネルギーは集まって来ない。
悩ましいところではあるのだが、これは事実というしかない。
億の金をハンドリングする為に必要なことは体力と知力だ、別にそれで散財するわけではないから、金があっても極めてストイックにならざるをえない、つまり、その最中はしんどいばかりで少しも楽しくないことを一応お伝えしておく、安部邦雄