このシリーズ書きながら、どうもこの欄には向いてないことに気づきはじめた。
DAWといっても、ほとんどの人には何の関係もないことだ。
おまけに簡単にDAWといっても、色んな種類がある。
それにいちいち注釈を加えて行っても、参考になる人はほとんどいまい。
何故変だと思うのかを書こうとすれば、どうしてもそのシステム構成に触れざるをえない。
緻密に論理をたどろうとすれば、どうしても専門的な説明にならざるをえず、そんなもの普通の人では理解出来ないだろう。
やはりこれはインターネット私見のような形で論理展開をした方がよさそうだ。
この欄の読者から、あまり面白くないので早くこのシリーズをやめてほしいと言われかねないような気がする。(前に教育シリーズで、それらしいことを言われてちょっとめげたことがあるのだ。)
ま、そういうわけでDAWの話をするのは、今日が最後だ。
しばらく我慢して読んでいただきたい。
私の言いたいことは、DAWを採用して放送局にノーハウが蓄積されて行くのかということだ。
DAWというのは、結局お手軽番組制作システムと言い換えることができる。
仕組みはわからなくともよい。
言われる通りにやっていれば、知らぬ間に番組ができる。
どんな番組になったかは、プログラミングしたあと、ゆっくりリハーサル・モードで聞くもよし、聞く時間がなければ実際の放送で聞くもよし、邪魔くさければ一回も聞かなくてもかまわない。
パーツを作れば、番組ができあがるのだ。
どう流すかは、番組のテンプレートにでも突っ込んでおけばよいのである。
こういうのは、パソコンで年賀状を制作したり、パワーポイントで企画書を作るのと同じだ。
素人に毛の生えたぐらいのスキルしかなくとも、プロらしくみえる作品になる。
放送局が導入しているのは、結局そういうものなのだ。
しかも、それによって制作費を減らし、人件費を減らそうとしている。
専門性云々なんて言うやつは、人件費が高い分だけ邪魔な存在になる。
しかし、放送局って、そんな存在でよいのか。
番組って、テンプレートに毛の生えたぐらいのものでよいのか。
そうなのだ、私から見ると最近のエフエム局の番組、どんどん誰が作っても同じようなものになりつつあるのだ。
音楽を知らなくても、しゃべり方を知らなくとも、人の生理を知らなくとも、リスナーの姿を知らなくとも、極端にいうと、本来番組を作ると言うことはどう言うことなのかに対する答を持たなくても、簡単に番組を作ることができるのだ。
こんなのはアマチュアの世界なのだ。
プロの世界はもっと目に見えないところに真髄があるものなのだ。
だが、DAWはそれら目に見えないものを無視しても、番組が作れると宣伝しているように私には思えて仕方がない。
道具の進化は十分認めている。
しかし、その進化の変わりに失うものにプロならもっと目を向けるべきだと私は思うのだ。
アナログ盤がCDになって、確かにハンドリングは容易になったし、音とびとか回転間違いとか、クラックノイズとかはなくなった。
しかし、それらも含めて放送だったわけで、それらがなくなったからと言って、番組がよくなったわけではない。
番組を作ると言うのは、ある意味共同作業であり、意識の集中力というのも重要な要素である。
しかし、DAWには意識の集中なんかそれほど重要ではない。
むしろ、データの処理能力が問われるだけであり、それはなるべく簡便になされるように改良されているから、そこから
「神の見えざる手」も働きようがなかったりする。
作品はそこに埋もれているものであり、作り手はただそれを掘り出すだけだという名言も意味がなくなる。(その掘り出すことがどれだけ大変か!)
車でいうと、マニュアルからオートマに変化したようなものである。
誰でも同じように運転できるようになるし、しかもハンドル操作だけに意識が集中するようになるから、事故率もぐっと減る。(これはその通り)
しかし、放送局は番組を作って流すということだけに本質があるわけではない。
リスナーのニーズと対応する形で、どれだけ日々クリエイティブなものを供給できるかにかかっているはず。
DAWはそんな要素に対して無頓着であり、それを導入するものも又、リスナーのニーズを固定化し、そこに進化の要素を組み込まない。
レコーディング作業等を簡便化することはDAWを通じて実現された。
これは、今迄の不注意によるミスをどんどん排除していくことができた。
しかし、番組作りは本当にそれだけのものだったか。
番組を作るものにとって、簡便化してほしかったものは何だったのか。
要は、この部分なのである。
取材してきた素材を編集する。
あるいはゲストのインタビュー部分を編集する。
不都合な部分を後でカットしたり、差し換えたりする、これらにおいてはDAW的なものはウェルカムなのである。
しかし、番組作りの流れにおいては、一体このシステムは制作者に何をもたらしてくれた?
制作者においては、番組作りというのは、己の意識の克服でもあるのだ。
このシステムは、かえって制作者から煩悶を奪い、マニュアルに依拠するだけになるのではないか、ということだ。
マクドナルドの売り子と同じになるのではないかということだ。
これらは今のところ、私の危惧でしかない。
今の段階でそれを声高に叫んでも、それほど意味があることでもないと言われかねない。
ただ、今のDAW、それは放送局のための重要なソリューションではない、これが私の問題意識である。
これ以上は、各論になり、又具体性にもとぼしくなる。
続きは、インターネット私見でということにさせていただきたい。
いつ書くかは保証の限りではないが。
つまり、DAWに望みたいことは、本当に面白い番組とはどういうものかをバリエーションとして持っていてほしいということだ、ただハード的に簡略化しても、ソフト自体の構造と関連させていなければ、出て来たものは類型化されたオモチャである、オモチャはオモチャだ、プロならそれに気づくべきではないのだろうか、安部邦雄