室生犀星の「抒情小曲集」に「小景異情」という連作がある。
その中の(二)に有名な「ふるさとは遠きにありておもふもの・・」という作品があるのだが、私は(一)の「白魚はさびしや・・」という作品にも強い思い入れがある。
表題の「外に昼餉をしたたむる」というのもその一節。
外に昼餉をしたたむる
わがよそよそしさとかなしさと
ききともなやな雀しばなけり
昼食をどこかの飯屋でひとり食べている、ひとりだけに何となく心細いし、たよりないし、情けなくなる、外で雀が鳴いている。ああ、聞きたくない、聞きたくない・・・。
この気持ちよくわかるのである。
家にいない限り、昼食はたいてい外食である。
考えてみると、私の昼食も半分ぐらいはひとりで食べているような気がする。
大阪時代も、会社に食堂があったが、宿直の時の夜食と朝食を食べに行く以外は、あまり同僚と飯を食いに行くということはなかった。
ほとんどが制作現場、営業現場だったので、仲間と一緒に過ごす時間があまりなかったということだろう。
営業時代は、それでもつとめてお得意さんと昼飯を食べたり、晩飯を食べたりするようにしていたが、それでも毎日誰かと食うというわけでもなかった。
誰でもそうだと言ってしまえばそれまでだが、私は少し人間嫌いなところもあって、2回に1回ぐらいはひとりでゆっくり食事をとりたいと思うタイプのようである。
毎日毎日、誰かと食事をしていたら、頭が変になってしまう、今日ぐらいは自分の好きなものを自分の好きなだけの時間をかけて食べてみたい、そう思ってしまうのだ。
犀星も本当はそうなのだと思う。
ただ、故郷捨てて、東京に出て来てしまったため、どうしても居心地がよくない。
昼飯を一人で食っていても、どこか、ここは自分の住むところではないという気持ちがつのる。
誰からもよそよそしくされていると思ってしまう。
それが、わがよそよそしさとかなしさに繋がるのだろう。
女性はひとりで外食するのはイヤだと言う人が多い。
店に入るのに気後れがするし、食べていてものんびりできない。
それなら、テイクアウトで弁当を買い、自分の慣れ親しんだ空間(会社とか公園の芝生の上とか)に持って行って、食べた方がいいらしい。
男は、店に入ることに女性程は気後れしない。(たまに、ひとりでは入れない人もいるが)
ただ、入ってからどうかというと、よほど磊落な人でなければ、そんなにのんびりと飯を食う人もいなさそうだ。
のんびりと昼飯の食える店、理想だけどなかなか見つからないようだ。(店からすると、回転をよくするために飯を食ったら早く帰ってほしいはずだから)
今行きつけで一番のんびりできるのは、近くのイタ飯やだろうか。
前に「いつものやつ」で通じると言った、あの店である。
ワイン飲んだり、雑誌読んだり、ぼーとしたり、1時間あまりいる。
それだけ、客で混んでいないからかもしれないが、従業員は適当に水を入れたりしながら適度に気をつかってくれる。
ま、常連にはこれぐらいするのが普通なのかもしれないが。
遠き都のゆうぐれに 故郷思い涙ぐむ
まさか、そんな気持ちになることはないが、それに近い抒情を胸にかかえて、ひとり珈琲の香りをかぐのもなかなかイイ気持ちのものである。
志を果たして、いつの日にか帰らん、それが故郷だとすると、私の志とは何だったのか、本当に帰ろうと思っているのか、第一、大阪は本当に私の故郷なのだろうか?安部邦雄