12月8日は日米戦争の開戦の日だ。
真珠湾奇襲攻撃の日でもある。
表題は「ワレ奇襲ニ成功セリ」という意味の暗号文。
他に「ニイタカヤマノボレ1208」というのもある。
意味は「開戦日を12月8日とし予定通り真珠湾に対し奇襲攻撃をせよ」ということらしい。
ニイタカヤマは台湾にある新高山。
今は「玉山」といい標高3952M。富士山より高い山だ。
台湾の方が山が高いのだ。知らなかったでしょ?
で、今日は開戦記念日ということになる。
「リメンバー・パールハーバー」なんてスローガンの下にアメリカが復讐の炎を燃やした日でもある。
前に、アメリカが一番許せないのは「アンフェア」であるということだと書いた。
この真珠湾攻撃も「アンフェア」の典型だろう。
大体、日本の戦闘行為は元々「やあやあ、我こそは!」等と名乗りを上げてから行うのが作法だった。
これを「元冦」で蒙古が破り、不作法そのものの戦争を仕掛けてきたのだ。
これは、もちろんアンフェアなやり方だ。
で、怒った日本の神様は、元が送った船団を雨と風で海の藻くずとしてしまった。
アンフェアであってはいけないのです、皆の衆。
もちろんこんな歴史観はトンデモ歴史学の一つですが。
トンデモ歴史本というのが、このごろよく目立つような気がしませんか?
「南京大虐殺はなかった」もそのひとつ。
そう主張する人は、今迄の大虐殺の証言はほとんどデッチアゲだとし、そんな証言で組み立てられた南京大虐殺は歴史の虚構だと言う。
証言がデッチアゲだというのはありそうな話である。
特に現代史においては、丹念に事実を拾い上げるのではなく、誰かの証言とか発言を何回も繰りかえして印象づけさせ、あたかもそれが事実であるかのように錯覚させるといいう方法論が多用される。
言うまでもなく、マスコミ(とりわけテレビ)のニュースのフレームアップによく使われる方法である。
南京大虐殺の話に戻ります。
証言だけで言うなら、私もそれに近い話を複数の人から聞いています。
一番近しい人は、私の親父です。
親父は、中支(中部支那を親父はそう呼ぶ)に駐屯しておりました。
そりゃ、日本軍のやり方はひどいものがあったようです。
モノは盗むは、クーニャンは襲うは、無抵抗な市民を撲殺するは・・・・。
「可哀想なこと、してやるな。」
親父はそう何度も止めたといいます。
兵隊からは、「うるさいわ!」と返って食って掛かられたらしい。
親父の証言だけでは、本当に南京大虐殺があったとは断定できない。
ただ、やりかねない、というのが私の結論であり、ほとんどの人の感想ではないだろうか。
歴史学は、事実を丹念に拾い集めることが大事だ。
ワイドショーのような、無責任なコメントと刺激的な映像で歴史を構成するのはやめたいものだ。
南京大虐殺に関しての私の意見を補足するなら、結局、それが事実としてあって得する人と、損する人がいるかどうかの検証から始めたらどうかと思う。
大虐殺があったら、自分達の立場がヤバくなると思う人は、そんな事実はなかったという結論を導きだしたいだろう。
なかったとしたら、今まで自分が言ってきたことがすべて意味がなくなると思う人は、当然、大虐殺はあったと頑固に主張するだろう。
歴史は、こう言った立場に立つ人が存在する限り、正しくは伝えられないと思った方がいい。
冷静に、事実だけを集める。
今まで、主張してきたことを、一つの歴史的な事実の発見によって捨て去ることができる。
それができなければ、歴史に口出しするのは控えよう。
現代史の論争には、そう言った類いの話が多すぎる。
小林よしのり氏の「戦争論」はその典型だ。
彼には、守りたい何かがあるのだろう。主張したいドグマがあるのだろう。
しかし、歴史とは、そういうもので構成されるべきものではない。
歴史に対しては人はもっと謙虚であるべきだ。
アフガニスタンで行われている戦争に対しても、中途半端な論評で話をまとめていいものではない。
テレビはあまりにもごう慢である。
アメリカだけを責めることはできない。今はそう思う私だ。
センセーショナルな歴史論には閉口の、安部邦雄