今日も、ゴタゴタしているうちに更新するヒマがなくなってきた。
「間違いだらけの・・・」は、もう少し時間がある時に書くことにして、今回は簡単にコミュニティFM論について語ってみる。
これは、あるコミュニティ関係者に書いたメールの一節なのだが、「番組はボランティアでも作れるが、リスナーはボランティアでは聞いてくれない」というのがある。
そう、放送を送る側は、誰でも気軽にできるが、それでリスナーが聞いてくれるかどうかはわからない。
送り手側はやはり、どこかプロでないといけないわけだ。
ボランティアであっても、エンタティナー的要素を持たなければ、客はついてくれないわけだ。
コミュニティはボランティアでもいいのだ、と簡単に言う人たちが多すぎるのがとても気になる。
番組らしきものは誰でも作れる。
それは、落語「寝床」の旦那が、浄瑠璃という素人芸を出入りのものに聞かせるようなものである。
浄瑠璃なんて、素人の芸は、ただうるさいだけで聞けたものではない。
みんな、つきあいで最初は嫌々聞いているのだが、そのうち用があるといって皆来なくなる。
食事つき、酒付きでもお断りということになる。
どこかの、役所から補助金が出ているようなコミュニティはたいてい、こういった寝床FMになったりする。
それでも、客が聞くわけではないことは落語の通りである。
寄席の最初に出てくる前座の話なんか誰も聞かない。
お客はほとんどいない。
真打ちが出てくることになると、やっと客は増えてくる。
大相撲、BSを見ているとよくわかるが、幕下ぐらいまでの取り組み時には、客は数える程しかいない。
やはり、関取の相撲とは迫力も技量も違う。
そんなもの、見てやろうというのは、よほどの粋人か、親戚関係者だろう。
つまり、コミュニティFMなんか、幕下以下の客のいない相撲場風景そのものなのである。
県域FMになって、やっと十両。
東京や大阪の大都市圏のFMになって、やっと幕内ということになる。
コミュニティFMが幕内のつもりで土俵に上がっても笑われるだけだ。
見るからに貧相、誰が見ても勝てそうにない、場違いを知らなければ、滑稽なだけである。
コミュニティFMはまず、以上のことを自覚することから始めないといけない。
その上で、どうしたら、私達のような番組でも聞いてもらえるのか、それを真剣に考えるべきだろう。
ということで、今日も軽いジャブみたいな話になった。
しばらく、違うことに頭を使う時間が増えるので、集中的に考えられないことをゆるしてちょんまげ、ね。
子供の頃は相撲が好きでしたね、近所の悪餓鬼といつも相撲をとっていました、しこ名は三根山、当時の大関で今の若乃花(花田勝)をもう少しオッサン顔にした関取、何でそんなしこ名をつけたのかな?当時は専らラジオで相撲を楽しんでいました。ふれ太鼓が流れるとわくわくしたものです、安部邦雄