あるコミュニティFMのオーナーの方針を聞いたことがある。
私は、日本の文化を大切にしたい。
日本語を大切にしたい。
だから、出演してもらう人は、きれいな日本語を話す人に限定したい。
J-POPも最小限度にしかかけないようにと制作者に言っている。
私は、別に反論しなかった。
オーナーがそう思われるのだったら、そうすればいい。
それで経営ができ、リスナーがつき、少しでも正しい日本語の啓蒙に寄与するなら結構なことではないか。
それで、経営が成り立つならば、だが。
ただ一言だけ言っておきたい。
ラジオというのは、社会の合わせ鏡的な部分も必要だということだ。
上から、教育しようとか、管理しようとかいう発想が強ければ、リスナーは鬱陶しがって聞いてはくれないということだ。
ニーズがあるからこそ、リスナーはダイヤルを合わせるのだ。
放送をすれば、絶対に誰かが聞くわけではない。
ラジオ日本なんか、見事にずっこけたではないか。
洋楽放送禁止、かけるなら演歌とか民謡とか伝統的音楽だけ。
経営の根幹は巨人戦の独占中継があるからいいのだ、そんな漫画的な経営方針を、当時のアウトローとかかわりのあった社長が言っていた。
結果、リスナーがどんどん離れて行った。
スポンサーだって、そんな放送局にいつまでもおつきあいで金だけ出していられない。
伝統的な日本への回帰を志向したと思われる、時代錯誤な経営方針は、市場のメカニズムによって業界から追放された。
どんなユニークな編成方針も、市場のメカニズムの前には無力である。
それを、放送人は何故かわかっていない。
過度な管理は番組を潰す、というのはまさにそのことを言っている。
市場のメカニズムに番組をゆだねるというのは、できるだけ番組をセットフリーにすることから始まる。
自由な番組作りこそが、自由な市場経済と対応する。
スポンサーの声を聞き、リスナーの声を聞き、そして己の心の声を聞く。
それらの弁証法的止揚の中から、新しい人気番組が生まれてくるのである。
その為には、なるだけ管理的なキーワードを排することが編成マンに求められる。
どんな番組を作るのも自由だ。
最低限度の品格と倫理を通奏低音のように流れていれば、どんな番組もOKである。
スタートはまずそこからである。
あれやったらダメ、これやったらダメなんて言っていたら、どこに弁証法の入る余地がある。
そんなの、どこぞのコンピューターにやらせておけばよいのだ。
高い人件費払って作るような番組ではない。
制作費をかけて作る番組なら、思いきり自由な番組にしよう。
金がないなら、制作費ゼロでできることを考えればいい。
大体、金もなしで自由な番組作りなんか、絶対にできないことを知るべきだ。
自由とは、基本的にコストが高いものである。
これぐらいの普遍的な真理は、放送マンなら知っていてもらいたいものだ。
但し、金をかけたからといって自由な番組にはならないことは、必要十分条件を知る人なら誰でもわかるだろう、自由の為に金を払うということは、私達の究極的な義務ではないかと近頃痛感するようになった、安部邦雄